『さよなら妖精』米澤穂信


学生時代を思い出して切なくなるいい青春小説だった(記憶改ざん済み)。

 

さよなら妖精 (創元推理文庫)

さよなら妖精 (創元推理文庫)

 

 

あらすじ

主人公は高校生のころユーゴスラビアから日本に来た少女(マーヤ)と偶然出会い、約2か月を過ごしたが、マーヤは詳しい住所を教えずに国に帰ってしまう。彼女の居場所を知るため、過ごした2か月の思い出を振り返っていく、という話。

青春小説

青春小説はたまに読みたくなる。
「青春小説」と言われてもいろんな小説があってはっきりしないが、「部活などに対する盲目的な努力」「同年代の恋愛・友情」「大人になる漠然とした不安と期待」なんかに焦点が当てられているのが青春小説だと考えている。

本作でも、主人公の守屋は自身の人生に対して不安抱いている。何をしてよいかわからず、その結果として何も成すことができず死んでいくことを予感して、それを避けるための道標を欲している。

おれはこういう場所に来ると、じりじりとした焦りのようなものが込み上げるのを抑えられなくなる。おれ自身は決して名誉欲の強い人間ではない。少なくとも自分ではそう思っている。しかしそれでいながら、ここに葬られた幾千のひとびとを思うと、ただ生きただ死んでいくことは望ましいことではない、という気になってしまうのだ。(中略)周囲が複雑すぎて、なにから手をつけていいかわからない。ならせめて道標がほしい。道標が。

小さいころは義務教育で一本道だった人生が、高校生を出るあたりからばらけていく。自分でどの道に進むかを決めなくてはならなくなる。

何をやるべきかわからない守屋にとって、マーヤは憧れの存在でもあったんだと思う。彼女はユーゴスラビアのために、いろんな国の文化を熱心に調査しており、自身のやるべきことを決め、それにまっすぐに向き合っていた。

その守屋の憧れがどういう結末を迎えるのかは本を読んでほしい(ミステリだからネタバレになってしまうためあまり言えない)。

ほかにも、友達との掛け合いとか、恋愛っぽいものとか、いかにも青春小説らしい要素も含まれていて、全体的におもしろかった。
氷菓(アニメ)を思い出してまた見たくなった。

『大人のための文章教室』清水義範

体系的な文章のトレーニング本ではなく、著者の実体験から得た文章に関する知識を並べていったような本だった。
そのため、話の内容は全体的に散漫な印象を受けたが、なるほどと思わせられる説得力のある話も紹介されていたりして、意外とおもしろかった。

大人のための文章教室 (講談社現代新書)

大人のための文章教室 (講談社現代新書)

 

 

 接続詞が文章の論理構造をつくる

例えば、著者は小学生向けの作文教室をしているそうなのだが、文章が下手な子の作文は使われている接続詞の種類が少ない、という話が紹介されていた(p.29)。

「きょう学校でスタンプラリーをやった。まず校庭にあつまって先生のせつめいをきいた。その次に、校門のスタートちてんに行きすこし遊んでいた。その次に時間がきたのでスタートして、だい一のちてんへ行った。その次に、歩いていくとむこうから先生がきて、こっちはちがうと言った。その次に、すこしもどったらまがるところをみつけた。(以下略)」


例として挙げられていた子は、接続詞を「まず」と「その次に」の2種類しか使えず、そのために出来事を時系列順に並べて伝えることしかできないのだった。

その事例から「接続詞は文章の論理構造を決定している」と抽象化され、いろいろな種類の接続詞が含まれる文章は論理展開が豊かであるという話に進んでいく。

Aという出来事がBという結果を生みだしたことを伝えるためには「だから」などの順接の接続詞を用いなければならず、Aという出来事が生じたのであるから次は当然Bが生じるだろうと考えていたのに予想に反してCという結果が生じた、という驚きを伝えるためには「だが」とか「しかし」などの逆接の接続詞を用いなければならない。

そのように使える接続詞の種類が多いほど、文章の中において表現できる文の関係性も多様になり、その結果として完成する文章の幅も広がる。

そういう目線で見直したことはなかったが、私の文章も実はワンパターンな接続詞ばかり使っていて、いつも同じ道筋をたどって思考していることがわかるのかもしれない。

 

文章がうまくなる方法

そもそもこの本を読もうと思ったのは、仕事で文章を書くことが多いので、それに少しでも役立てばと考えたからだった。
あと、高校生のころから断続的に日記(読書日記)をつけているのだが、いつまでたっても文章がうまくなっている気がしないので、なぜだろうと思ったのも理由の一つだった。

2つ目の理由に対しては、答えらしいものが本書の中で見つかった。

 読み手を頭の中に想定して書け、ということを私はこの教室で何度も言ってきた。秘密の日記をいくら書いたって文章はうまくならない、ということである。女子中学生がノートを作って、そこに詩のようなものを百書いたって文章力はつかない。

 文章とは自分を他者に伝えるためのもので、うまく伝えたい、できれば相手を同感させたいという目標を内在しているものなのだ。文章がうまくなるというのは、その目標に近づくことである。(p.200)


私が続けてきた日記は、特に誰かに伝えるためのものではなく、もっぱら自分のために書いていたものであったので上手くならなかったのだ。

なので、これからは読み手を意識してブログを書くことを通じて文章が上達すればと思った。

『高い城の男』フィリップ・K・ディック

「われわれはみんな虫けらだ。なにか恐ろしいもの、それとも神々しいものに向かってうごめいている虫けらだ。そう思わんかね?」(p.163)

 

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

 

 
いわゆる歴史改変SFで、第二次世界大戦ナチス・ドイツと大日本帝国が勝利した後の世界を、日本政府の高官や敗戦国民であるアメリカ商人など、様々な登場人物の視点から描いた作品。


今まで読んだディックの長編の中では、一番読みやすかった。

 

読みやすかった理由は、物語の構造に関係があると思う。

 

既読のディック作品(『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『ユービック』『流れよわが涙、と警官は言った』)は、どれも「自分の認識している現実は本当の「現実」ではないのではないか」という「現実性の揺らぎ」がテーマになっていた。

 

『ユービック』『流れよわが涙』(略)では、どちらも薬や超能力の影響によって世界そのものが変わっていくし、『アンドロイド』(略)では、世界の観測者である「私」の立場が、「人間⇔アンドロイド」と揺れ動くことで、世界の見え方が変わっていった。
そのように作中の現実が変化するために、読んでいると脳みそがひっくり返されるような感覚がある一方、舞台の足場が安定せず、どろどろの夢の中を進んでいくような印象があった。

 

それらの作品に対して、本作の『高い城の男』では、ドイツと日本が戦勝国であるという「現実」と「虚構」(作中に出てくる、ドイツと日本が敗けていた世界を舞台にしたフィクション小説)の対立形式はあるものの、それらの立場が入れ替わることはなく、あくまで作中での「現実」はドイツと日本が戦勝国である世界だった。この舞台の安定が、読みやすさにつながっていたのだと思う。

 

安定している分、舞台がいつも以上に緻密に作りこまれている印象を受けた。混乱したドイツの統治体制や日本人が持ち込んだ易経の流行など。また、敗戦国民であるアメリカ人の心境が細かく描かれていたことにも感動した。

 

一番好きな場面は、アメリカ人の商人であるチルダンが、日本人の顧客に相対して、民族的な誇りを取り戻す場面だ。チルダンは今まで過去のアメリカ文化を象徴する品物を日本人相手に売ってきたが、アメリカ人の作った現代的な工芸品をきっかけに、自身の人生をその工芸品を通してアメリカ人の芸術・誇りを伝えていくことに使うことを決心する。

 

一方で、日本政府の田上は、自分の人生の目的を見いだせない。冒頭に引用した台詞のように、彼は大きな社会の流れの中で、やるべきことを見いだせないでいるように感じた。その対比が良かった。

 

meganeza.hatenablog.com

 

『昆虫はすごい』丸山宗利

ブラジルの洞窟に生息するトリカヘチャタテというカジリムシ目の昆虫では、雌に陰茎状の器官があり、それを雄の膣状になった交尾期に挿入し、精包を吸い取る(p.85)

等の昆虫の不思議で多様な生態が、「狩り」「生殖」など項目に分けて数多く紹介されており、おもしろかった。

 

昆虫はすごい (光文社新書)

昆虫はすごい (光文社新書)

 

 

昆虫の生態には、生きるための必死さが現れており、その赤裸々さが残酷に思えるときがある。自分が生き残り、子孫を残すためには、他の生物を利用することもいとわない。
人である私も、生きるためにほかの生物を食べたりしているが、普段の生活ではそれを意識せず、ほとんど忘れてしまっている。昆虫の生態は、生きるということの根本的な残酷さを思い出させてくれる。

その意味でもっとも残酷だと思ったのが「寄生」だ。

「寄生蜂」と総称される種類の蜂は、別の虫などの体内に卵を産み付ける。卵は体内で孵化し、孵化した幼虫は宿主の体を中から食べて成長する。最終的に、体を食い破って成虫となる。

寄生する虫の中には、宿主を自分たちの都合のよいように操作するものもおり、例えば、カマキリなどに寄生するハリガネムシは、水中で交尾を行うため、成長すると宿主のカマキリを操作して水辺まで移動させ、そこで体内から出てくるという(p.46)。

寄生が残酷だと思うのは、虫を人に置き換えて考えたときに、対象を自分の生存のための道具としてしか扱っていないからだと思う。

人間の生きる目的は一つではないと思う。私は誰か・何かのために生きているわけではない。私の一つ一つの行動は、本能によって自己保存のために緩やかに統御されているのかもしれないが、少なくとも意識のレベルでは、何か1つの人生の目的をもっているわけではない。

寄生はそれを変えてしまう。目的から自由であった生を、別の生き物の苗床としての役割しかなくしてしまう。他者を人から道具に変えてしまう。

そう考えると、寄生に感じる残酷さの本質は、他者を道具化することにあるのかもしれない。

『流れよわが涙、と警官は言った』フィリップ・K・ディック

 

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

流れよわが涙、と警官は言った (ハヤカワ文庫SF)

 

 

先の展開が読めなくて、次はどうなるのだと思ってるうちにすぐ読み終えてしまった。

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』や『ユービック』もそうだったが、ディックの小説はどんでん返しがあっておもしろい。

 

大量のガジェットが何の説明もなく描かれていて、ディックを読み慣れていないこともあってかなり混乱した。タバコが高価な支給品になっていたり(マリファナの方が日常的になっている)、車が空を飛んでいたりした。また、主人公は遺伝的に改良を加えられた「スィックス」という存在なのだが、結局「スィックス」が何なのかについては最後までちゃんとした説明がなかったように思う。

 

非現実的なガジェットに対して、登場人物はルースやバックマンなど人間味があり現実にもいそうな人が出てきて、そこがまたおもしろかった。

 

特に、ルースとタヴァナーの、愛に関する議論が興味深かった(p.191-203)。

タヴァナーは、愛とは必ず失われるものであり、失われた後には悲しみに苦しめられることになる、したがって、苦しみを避けるためには愛さない方がよいと言う。

一方でルースは、愛はすばらしい感情だと主張する。愛とは自己犠牲的に他人を思うことで、自己保存を超えるものであるからだという。また、愛とは必ず失われるものであるが、それによって生じる悲しみも同様に素晴らしい感情であると主張する。悲しみは、失われた対象と自己とを再度結びつけるものであるからだという。

 

個人的には、ルースの愛を擁護する意見は論理的に意味不明だと思った。タヴァナーの意見の方が論理的だが、しかし、そのように貫徹できないのが人間だとも思った。

ルースの意見が論理的に意味不明なのは、ルースが論理的整合性に欠けるからではなく、そもそも失われることがわかっていながらも愛さずにはいられないという人間の性質自体が非論理的だからだと思った。

 

近未来であっても、人間の愛に関する非論理的な性質は現代と変わらず、それがガジェットまみれの世界の中で浮き彫りにされていて、おもしろかった。

 

ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

ユービック (ハヤカワ文庫 SF 314)

 

 

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))