素粒子 ミシェル・ウエルベック

ウエルベックにドはまりしている。この本もおもしろかった。でも個人的にはプラットフォームの方がよかった。素粒子は登場人物が多く、それによって登場人物当たりの描写量が少なくなってしまって、深く感情移入する前に物語が進んでいってしまった感じがある。また、プラットフォームにはユーモアがたくさんあって肩の力を抜いて読めたが、素粒子は比較的シリアスだった。

 

3冊目にしてやっとウエルベックの中心がわかってきた。ウエルベックの中心は主に2つあると思う。

 

1つ目は近代合理主義に対する批判的な視点だ。ウエルベックは物質主義社会はこれまで宗教が支えていた道徳を破壊し、家族や社会などの共同体を破壊してわれわれの人生を不幸にした原因だと考えている。近代合理主義は個人を発見し、そこから自由が生じたが、一方で共同体から切り離されたことにより死の意識も生じ、それが不安の源泉になっている。また、近代合理主義によって宗教に支えられていた道徳が破壊されたことにより、これまで道徳によって抑えられていた暴力が噴出した。そこで、近代合理主義のカウンターとして、服従ではイスラム教が配置されていたが、素粒子ではそこにあたらしい人類が置かれていた。あたらしい人類は同様の遺伝子を持ち、みなが双子のような存在であるので、近代合理主義から生まれた個人・時間・空間の概念無力化され、それらが源泉となっている暴力もなくなるというものだった。

 

2つ目は恋人との性愛が、個人に幸せを与えてくれる非常に重要なものとして考えられている点だ。ウエルベック素粒子でもプラットフォームでも、自身に幸福を与えてくれる女性との登場によってつかの間の幸せが訪れる描写がある。結局のところ、それらは無残にも奪い去られてしまうのだが、この恋人との親密な関係が近代合理主義による厳しい社会から免れるサンクチュアリのように描かれている。このあたりの感じは、ゼロ年代初頭の日本のサブカルチャーセカイ系や純愛系に近いような感じがする。だからこそはまれるのだろうか。実際素粒子が書かれたのも2001年のようで、最近の本だという印象をもっていたが、20年近く経ってしまっているのだと驚いた。

素粒子 (ちくま文庫)

素粒子 (ちくま文庫)

 

 

物語 シンガポールの歴史 岩崎育夫

歴史系の新書だが不思議と文章に熱があってすごくおもしろかった。

 

シンガポールの特徴の1つは、通常とは異なる順序で国家が形成されたことだと理解した。

通常は、最初に集落があり、集落の中から長が生まれ、その長を中心に集落が発展し国家が形成されていく、という順序になると思う。一方、シンガポールの場合は、イギリスが何もないジャングルを貿易の中継地点と決めてから人が集まってきて歴史がスタートした。つまり、長が最初からいて、そこに人が集まってくるという逆の順序で国ができている。

また、そのような出自のため、国の制度にも確たるものがなかったため、独立後もリー・クアンユーによる強力なリーダーシップの下、経済発展を国是に、白紙のキャンバスに描くように制度が設計され発展してきたらしい(p.226)。

 

シンガポールの発展はリー・クアンユーの影響を抜きにしては語ることができないこともわかった。リー・クアンユーはマレーシアとの統一という目標に挫折した後、シンガポールという資源のない国を国際社会で存続させるためにゼロから社会制度を形成していった。シンガポールを存続させることすなわち経済成長を第一の目的とし、そこにすべての資源を投入しあらゆる障害を排除したようだ。リー・クアンユーは、マレーシアから独立した後に、シンガポールが生き残るためには悪魔と貿易してでも経済発展しなければならないとの趣旨の発言をしたらしい(p.200)が、その目的意識と責任感はどこから湧いてくるのだろう。リーは徹底したプラグマティストだったそうだが、道徳や個人の感情を捨てても必ず目的を達成するという姿勢には、何か憧れを感じてしまう。ギリシアテミストクレスも国民をだましてまで海軍力を増強し、それが当たってペルシアとの闘いに勝ったみたいなエピソードがあったが、歴史に名を残している政治家の自信と実行力はすごい。

 

物語 シンガポールの歴史 (中公新書)

物語 シンガポールの歴史 (中公新書)

 

ボヴァリー夫人 フローベール

ボヴァリー夫人の小説はユイスマンスのさかしまの中で褒められていたので興味をもって購入した。さかしま以外でも言及がなされていたように思う。なんでもフランス近代小説の祖と言われているらしい。

 

実際おもしろくて、実家に帰る前日から読み始めて3日で上下巻を読み終えてしまった。不道徳な小説はそれだけでも興味をそそるが、ボヴァリー夫人が身を持ち崩していく過程にはらはらしてつい一気に読んでしまった。レオンと最初に分かれたときにはお互いに気持ちも打ち明けられなかったのが、ロドルフとの恋を経て再開したときには、レオンに「あまりに底深く秘められて、ほとんど形のないまでに縹渺たるみだらさを、エンマはいったいどこでおぼえたのであろうか」と思わせるまでになっている。女性が恋する男によって不可逆的に変えられていくのはとても興奮する。コルセットのひもを音を立てて引き抜いて、着ているものをかなぐり捨て、レオンにとびかかる描写がほんとに好き(p.220)。

 

不倫が題材として扱われているものの、「理想と現実」のギャップに悩んで身を滅ぼす人がテーマになっている、とどこかで書かれていた(下の表紙に書かれていた)。理想をどこまでも追い求めるが、それは頭の中にしかなく、現実では決して見つからない、というのはよく扱われているテーマのように思うが、それに対する処方箋は何なのだろうか。フローベールも「ボヴァリー夫人のモデルは私である」と言ったそうだが(そしてそれの元はさらにセルバンテスドン・キホーテのモデルを聞かれたときの受け答えにさかのぼるそうだが)、実際理想を追い求めて現実をないがしろにする性質は自分にもだいぶあるような気がして、本を読んでいる間はボヴァリー夫人に対して軽蔑を感じていたが、他人事ではないのかもしれないと思うと空恐ろしくなる。

 

文章も、恋人と恋に落ちるシーンは印象的に描かれていた。ロドルフとは、上巻の最後の、役人のご高説とロドルフの口説きとが交互に書かれていて、今からしても新鮮味を感じる表現だった。レオンとは、窓を閉め切った馬車を延々走らせている描写が続いた後、窓からちぎれた手紙(交際を断る旨を描いたもの)が捨てられることで、馬車の中で二人の関係に進展があったことがほのめかされていた。ボヴァリー夫人は自由間接話法という手法を使った点で文章としても新しかったようで、新潮文庫の新訳が原文を忠実に訳してその感じを味わうことができるようなので、時間を空けてそちらも読んでみたい。

 

ボヴァリー夫人が死んだ後も、他の登場人物のその後が描かれていて、それらが悲しみを誘って耐え難かった。特にルオー爺さんの描写は胸に来た。シャルルは最後まで善良に描かれていて、涙を誘う。

 

meganeza.hatenablog.com

ボヴァリー夫人 (上) (岩波文庫)

ボヴァリー夫人 (上) (岩波文庫)

 
 

さかしま J・K・ユイスマンス

ウェルベック服従の主人公がユイスマンスの研究者の設定で、それで気になって読んだ。1か月ぐらいかかった。

 

話の展開に重きが置かれておらず、主人公が部屋の中で音楽や本や香りや色などに関する趣味をひたすら披瀝していく本だった。いかにも退屈そうだが、意外とすらすらと読むことができた。1ページに3つぐらい読めない単語が出てきたが、ユイスマンスの文章自体も隠語や古語がふんだんに使われていたようなので、原文の印象を表すためにわざとそうしているのかもしれない。

 

デカダンス聖典とされていたようだが、あまりその面では新鮮味を感じなかった。今ではデカダンスサブカルチャーにあふれているからだと思う。アニメの敵キャラによくいる。そういう趣味が一般的でなかった時代には珍奇なものとして映ったのだろう。あとがきに作品が発表された当時の反応が描かれているが、「こんな小説が一言でも解るぐらいなら、いっそ首を吊って死にたいものだ」といった人もいるようだ。さかしまはよくその価値を世界に広めたものだなと現代の視点からみると思える。

 

オカルティズムに興味があるのだが、どういう本を読めばいいのかわからない。澁澤龍彦が関連している本を読んでいくのがよさそうだ。ユイスマンスの他の作品も同じような主題を扱っているようなので読んでみたい。彼方は文庫でも出版されているようなので読みやすそうだ。 

さかしま (河出文庫)
さかしま (河出文庫)
 
服従 (河出文庫 ウ 6-3)
服従 (河出文庫 ウ 6-3)
 

ロング・グッドバイ レイモンド・チャンドラー

半月ぐらいかけて読んだ。村上春樹訳で、むちゃくちゃ長いあとがきが書いてあった。村上春樹ってやっぱり文学に精通しているんだなと思った。当たり前なのだが。

 

主人公のマーロウが、スマートそうな名前の割には頑固だったり暴力的だったりしておもしろかった。村上春樹が翻訳しているだけあって、コーヒーを飲んだりギムレットを飲んだりとおしゃれな感じですごしていて、 村上春樹はこのあたりから自分の作風を作り上げたのかなと思った。ウィキペディアによると、自分の人生にもっとも影響を与えた作品の一つとして挙げているらしい。

 

村上春樹は『カラマーゾフの兄弟』と『グレート・ギャツビー』と本作を、もっとも影響を受けた作品3作として挙げており、『羊をめぐる冒険』の物語も本作の影響をよく指摘される。

貼り付け元  <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E3%81%84%E3%81%8A%E5%88%A5%E3%82%8C>

 

 

中盤のウェイド夫妻が物語に絡んできたあたりから話がおもしろくなって、一気に読めた。アイリーン・ウェイドはすごく美人に描写されていて、実際に見てみたいと思った。

 

村上春樹曰く、チャンドラーにはフィッツジェラルドと共通するところがあるそうだ。僕はグレート・ギャッツビーを読んだけど良さがわかっていない。ロング・グッドバイもおもしろく読むことはできたものの、単純にミステリーとして読んだだけで、村上春樹のように深いところで良さはわかれていない気がする。そのあたりの感性に欠けるんだろうな。村上春樹はあとがきで良さをむっちゃ書いていたが、実感としてわからなかった。

 

ウィキペディアによるとハードボイルド小説の定番になったぐらい影響を与えたそうだ。これがいわゆるハードボイルド小説だったのか。あまりにおしゃれで自分の持っていたハードボイルドのイメージとは違っていた。シン・シティのザッツ・イエロー・バスタードがいちばんイメージに近い。

 

シン・シティ2

シン・シティ2

 

 

ダンジョン飯 6巻 シェイプシフター考察

自分と同じ考察が見当たらなかったので書いた。表で色を付けているところが考察で、ほかは消去法で埋めた。

 

1.ライオスのシェイプシフター

f:id:meganeza:20180623213600j:plainみんなのライオス像がむちゃくちゃすぎて笑える。

 

 

2.チルチャックのシェイプシフター

f:id:meganeza:20180623213607j:plainセンシはチルチャックのことを子どもだと思っているし、マルシルもチルチャックを子ども扱いしているので、どっちのシェイプシフターもかわいい感じになっている。

 

3.センシのシェイプシフター

f:id:meganeza:20180623213613j:plainマルシルも料理は手伝っていた気がするので、なぜフライパンが適当だったのかわからない。

 

4.マルシルのシェイプシフター

f:id:meganeza:20180623213618j:plain

魔術書が適当なシェイプシフターは、「髪は魔術師の命なのに」と発言しているが(p.113 6巻)、センシも2巻で湖を渡るときにマルシルが髪は大事と言っているのを聞いてる。

 

黒魔術のシェイプシフターは、センシもチルチャックも魔術に対しては好感を持っていない気がするので、どちらのものか決めかねたが、チルチャックの方にはエルフと黒魔術に対してステレオタイプなイメージで発言している描写がある。

上の髪に関する発言の考察と合わせて、黒魔術のシェイプシフターをチルチャック、魔法書が適当なシェイプシフターをセンシのものと考えた。

 

髪を下ろしているシェイプシフターは、ファリンを黒魔術で生き返らせたときのマルシルだと思う。目の周りが涙で腫れているっぽい描写があるし、髪もほどいている。発言もシリアスだ。

禁忌を冒してもファリンを助けてくれたところがライオスの印象に残ったのかなと思って、なんかよかった 。

  

 

ダンジョン飯 6巻 (ハルタコミックス)

ダンジョン飯 6巻 (ハルタコミックス)

 

 

BLAME!劇場版 感想

BLAME!劇場版は弐瓶初期作品厨という糞せまニッチで暮らすサブカル諸氏にとってめぐみの雨であったことだろう。

 

私は回転する偽装端末の周りをペースを合わせて歩くシボを見たときの衝撃でいまだに動機がするし手が震えているし汁も漏れ続けている。最高だった。

 

色眼鏡のかかった評価になるが、信者以外の人にとっても、なかなか癖がありつつも普通に楽しめる、見て損はない作品に仕上がっていたと思う。

 

blame.jp

 

しかし、手放しでほめてよいものだろうか?

以下思ったことを書く。

 

気になった点

1.説明っぽさを感じたこと

BLAME!原作は説明があまりにもなさ過ぎて何度も繰り返し読まないと意味不明なレベルだが、逆に説明が極力排されていることで読者の想像にゆだねられる範囲が多くなり、むしろ作品世界のリアリティを保っていた面もあると思う。

 

一方映画では、マンガのように止まったり戻って見返すことできないメディアでもあり、またマス向けを意識せざるを得ないメディアであることもあって、その原作をできるだけ一度で万人に理解できるように作品設定の説明が丁寧にされていたように思う。

 

それが登場人物の口を通してされるために、説明臭さを感じる場面が多く、また想像の余地が減って原作のリアリティが薄れて中途半端なものになってしまっている感があった。(ネット端末遺伝子の話を5回ぐらい聞いた気がする。それでも捨造が理解してなくて笑った)

 

解決策としては、原作に忠実にする or 設定から改変しまくって完全大衆向けのアニメにするのどちらかに寄せるぐらいしか思いつかないが、それは原作あり映画の姿勢としてよいのか、と思うのでどうしようもなかった気がする。

 むしろ上記のような安易な解決策に頼らず、原作の良さを残しながらできるだけ大衆向けにしようと努力がなされていたのは個人的にはよかった点だった。

 

2.感情の移入先の設定がうまくいっていないように思えたこと

主人公の霧亥が無口過ぎて、感情移入先として役立たず(原作どおり)であるため、代わりの感情移入先を設けるのにすごく苦労しているように思えた。そこで代わりとして用意されたのが電気猟師の人々だったのだと思う(インタビュー記事に書かれていた)が、それが後半の展開と会っていなかった気がした。

 

弐瓶の初期作品は「孤独さ」が魅力だと思っていて、登場人物が新しく出ては少しの間主人公とランデブーをして、すぐにいろんな形でフェードアウトしていく。味方はすぐ死んだり別の生き物に変身してしまうし、敵はコミュニケーションが成立する余地もなく襲い掛かってくるので戦わなければならない(すぐ死ぬ)。

他人とつながりができたかと思うと奪われてしまう描写が何度も繰り返し出てくるが、そんな中を霧亥は変わらず1つの「ネット端末遺伝子を探す」という目標を抱いてもくもくと歩いていく。

「結局他人は他人で、一人で生きていかないといけないんだなあ」としみじみ思わされるところが、原作の魅力の1つだと思っている。

 

映画では、上で述べた通り、感情の移入先が電気猟師に設定されており、電気猟師に感情移入してみる我々が感動できるよう、電気漁師が「困難を克服すること」によって感動を与えるような話づくりがされていたように思う。

でも電気猟師は原作では他の登場人物の例にもれずすぐフェードアウトする役回りの人たちで、原作リスペクトによるその辺の展開も微妙に採用されており、それが困難の克服的な方向性と微妙にあっていなかった気がした。一方では原作どおりむちゃくちゃに蹂躙され、一方では勝利、みたいな、結局どっちに捉えればいいの?というちぐはぐな感じを受けてしまった。

でもこれは自分が原作に引っ張られすぎた鑑賞をしてしまったかもしれない。

 

この点も解決策としては霧亥をものすごくヒロイックな主人公にして、感情移入できるようにキャラ設定を変えてしまう等の方法も考えられたが、上述のとおりそのような解決策はこの映画ではとられておらず、よくも悪くも原作に忠実で、片言で「おれは。。。ネット端末遺伝子を探している。。。」としかしゃべらないおよそ主人公らしくない設定のままであった。

この点も原作を残しながら大衆向けにするために苦慮した結果だったのだと思う。

 

 

最高だった点

1.動いていたところ

 

最高

 

 

2.デザイン

 

 

 

3.話の構成

再確認したが、BLAME!はわかりにくい世界設定と説明のなさから意味不明な作品に思えるが、話の展開の方はその実しっかりしていて、盛り上がりの場面がきっちり設けられている。映画になって、その辺の構成の良さがあらためてわかった。

映画オリジナルの展開の部分も、違和感なく原作につながっててよかったと思う。

 

4.フェティシズムを感じる描写

弐瓶らしいフェティシズムを感じる描写が随所にあって、最高だった。

シボのあのハイヒールのコツコツ歩く感じ!!!とか、電気猟師のヘルメットの顔と顎の覆いが連動してる感じとか!!!

涙がでるわ。。ほんとに。

弐瓶好きならまちがいなく満足できる。はなまる

 

4.音響

BGMがEDMっぽくてかっこよかったし、音響にもこだわりを感じた。シボのハイヒールのコツコツ音やセーフガードの歩くカチャカチャ音とか、電気猟師の打つボウガンみたいなやつの金属音なんかは、強調されていて存在感があった。

 

5.原作リスペクト

散々上でも述べてきたが、原作リスペクトが端々に感じられて良かった。

原作の設定とか話の展開を残しながら映画としておもしろくしようという姿勢がうかがえたし、原作の名ゼリフなんかも場面を変えて使われていたりだとか、原作の別の場面で出てきた場所(自動工場とか!あと電気漁師が一晩泊まった窓のいっぱいあるとこは9巻のシボが建設者と暮らしてたとこ?また、映画の霧亥の初登場シーンは原作のドモチェフスキーと霧亥が初めて会うとこか?)が出てきたりして、すごい満足した。うう。

 

 

総評

弐瓶好き、BLAME!好きには文句なしで勧めれる。シボやサナカンが動いているだけでほんと。。弐瓶作品に触れたことがない人にとっても、作品としておもしろく鑑賞できつつ、弐瓶作品の癖とか原作の雰囲気を感じられるものになってると思った。ぜひBLAME!劇場版を入り口にして、他の弐瓶作品も読んでほしい。

 

正直私は最近の弐瓶の作品があまり好きではない。大衆向け作品を志向するのはいいと思うが、その方法がいかにもマンガ的な描写をとってつけたような気がしてしまい、どうも受け付けなかった。

 

そんな私にとってもBLAME!劇場版はよかった。

最近の作品はどんどん自分が好きだった弐瓶の作品から離れていってしまって悲しさを感じていたが、BLAME!劇場版は原作の良さを残しながら大衆に受ける作品を目指しており、BLAME!原作へのリスペクトを感じさせる作りに感動した。。。

 

弐瓶自身は過去の自分の作品制作スタンス(「面白いものにしよう」と思っていなかったこと)を否定してる(https://akiba-souken.com/article/30072/)から、原作リスペクトは弐瓶自身ではなく他のスタッフによるものなのかもしれないけど。。

弐瓶も過去の作品の価値を棄て去らずにいてほしい。完全に個人的なあれだが。

人形の国も読みます。

 

 

 

 

でも安易に裸とかギャグっぽい描写を放り込むのはやめてくれーーー!!!!!