『スキャナー・ダークリー』フィリップ・K・ディック

麻薬乱用は病気ではなく、ひとつの決断だ。しかも、走ってくる車の前に飛び出すような決断だ。(p.453)

 

スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF)

スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF)

 

 

あらすじ

ハヤカワ文庫のあらすじをそのまま引用する。

カリフォルニア州オレンジ郡、覆面麻薬捜査官フレッドことボブ・アークターは、流通し始めた新種の麻薬・物質Dの供給源をつきとめるため、おとり捜査を行っていた。自ら物質Dを服用して中毒者のグループに侵入した彼は、有力容疑者としてボブを監視するように命じられる。自分自身の行動を見張るうちにボブ=フレッドの意識は徐々に分裂していく・・・。ディックの最高傑作との声も多い、超一級のアンチ・ドラッグ・ノベル

 

感想

薬中のリアリティ

あらすじからして、何が「現実」なんだ的なぐちゃぐちゃな話を期待して読んだら、意外とそうでもなくて、語り手が分裂していくというギミックはありながらも、主人公がドラッグに溺れて燃え尽きる(人としての通常の生活ができなくなる)までを描いた、割と筋の通ったストーリーだった(ぐちゃぐちゃではあったが)。

ディックの本でよくテーマになる「現実性=アイデンティティの揺らぎ」は、この本だと若干背景に引いていたように思う(とはいえ、スクランブルスーツや物質D等のガジェット、タイトルが「スキャナー=目=自我」「ダークリー=おぼろげな」であることからも、その点がテーマの1つであることは間違いないと思うが、少なくとも『ユービック』や『流れよわが涙、と警官は言った』ほど強烈には感じなかった)。

 

その理由だが、おそらくこの本がディックの体験に大きく依拠した作品だからだと思う。孫引きになるが、あとがきで引用されていたディックの本書に対するコメントを引用する。

「・・・わたしは、ドラッグ・サブカルチャーの中で知り合った人々の記憶を紙の上に書き留めておきたかった。彼らのことを記録に残すために、あの小説を書いた。」

「いちばんの問題は、彼らの言葉の調子が耳から消えてしまわないうちに、彼らの声を紙に書きつけられるかどうかということだった。それには成功したと思っているよ。いまではもう、あの連中のことを書くのは不可能だろう。『スキャナー』を読みかえすと、彼らが生き返ってきたような気がする。」(p.465)

ディック自身の実際の経験を元に書かれた作品であったから、現実性の揺らぎの要素は薄まったのだと思う。その代わりに登場人物の薬中たちから異様な現実感を感じた。

薬中のカップルの口論や、ラリったあとのくだらない会話(ハシシを隠して税関を超えるために、ハシシの塊を人の形にくりぬいて彫像にして中にモーターをいれて税関を通らせようぜ、とか)が、いかにもほんとに話してそうな感じだった。

 

そんなくだらない会話や、幻覚や、脅迫的な思い込みにさいなまれている描写の合間に、サブリミナルのように悲しみを誘う描写が挟まっていて印象に残った。

例えば上で触れたハシシの彫像のバカ話は、ふとした拍子に燃え尽きた知人(床の上に糞尿をし、オウムのように同じことを繰り返して話すだけになった)の話になり、重い沈黙にとってかわられる。

別の逮捕された薬中の女は50歳ぐらいに見えたが、年齢を聞くと19歳で、警官に鏡で自分の姿を見せられて泣き出してしまう。

 

薬中の登場人物たちの全てに、暗い影が付きまとっていた。

 

本作のテーマ

本作はあらすじでは「アンチ・ドラッグ・ノベル」として紹介されているが、本作や著者あとがきでのディックの薬物乱用に対する姿勢は、「アンチ・ドラッグ」という字面から私が受けた印象とは異なっていた。

 

ディックは作中を通して「薬をやる人間=悪」という描き方をしていない。

「これだけはいわせてください。ヤクにはまったからといって、その人間のけつをけとばさないように。ユーザー、つまり、常用者をです。彼らの半分、いや、大部分、とりわけ若い女たちは、いったいなんにはまりこんだのか、いや、なにをやっているのかという自覚さえない。・・・」(p.48)

 

では何が悪なのか。

答えは、中毒者に「薬をもたらす社会の仕組みそのもの」である。これが本作の最重要なテーマであると思った。

主人公のアークターは薬の出どころを探すが、薬の密売ルートは複雑に入り組んでいて、見つけることができない。中心をなくした悪が取り除きようのないほど奥深くに潜り込んでいて、いつのまにか誰もが悪に加担してしまっており、その結果として無関係な個人が犠牲になって死んでいく。

そのような、社会の背景にあるとらえようのない見えない大きなメカニズムとして、悪が考えられているように思った。

 

終盤の女の独白が上の答えを暗示しているように思える。好きなので引用したい。

どうしてこんなことが起きるわけ?それはこの世界に呪いがかかってるからよ。・・・それがはじまったのは、きっと何千年も前にちがいない。いまでは、あらゆるものの性質のなかへそれが染みこんじゃってる。そして、あたしたちみんなの心のなかにもだ。どんな人間も、それをしなくては、向きを変えることも、口をあけてしゃべることも、なにかを決めることもできない。・・・いつの日か、あざやかな色の火花の雨がもどってきて、こんどはあたしたちみんなでそれを見られたらいいのに。せまい戸口。その向こう側にあるのは平安。彫像、海、それに月明かりに似たもの。なにひとつ動かず、なにひとつその静けさをかき乱さない。(p.386)

 

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