幻獣辞典 ホルヘ・ルイス・ボルヘス

辞典という題名がついているものの、掲載されている幻獣は西洋系が中心だった。言語的な問題から仕方ないのか、日本の妖怪系はまったく収録されていなかった(ぬりかべとか)。収録の基準もあいまいで、カフカCS・ルイスの想像した動物は細かく収録されていたが、これらを収録するならポケモンも全部載せてほしい。一方で、ラミアやセイレーンなどの、ウィッチャー3に登場したモンスターの背景を知ることができたのはよかった。

 

子供のころは図鑑が好きで、よくおじいちゃんに買ってもらった動物図鑑や魚図鑑を眺めていた気がする。それにオカルト系の本も好きだった(吸血鬼の家族の絵本とか学校の七不思議系とか)ので、子供のころから趣味が変わっていないなと思う。

 

出展はプリニウスの博物誌からが多くて興味を持ったが、幻獣だけでなく世界のすべてについて記述した百科事典的な本で、元は37巻もあるみたいだ。Wikipediaによると、ルネサンス期の15世紀に活版印刷で刊行されて以降、ヨーロッパの知識人に愛読されてきたらしい。幻想文学にも影響を与えたと書いてある。日本語版だと全5巻ぐらいで出版されているようなので、買ってみてもいいかもしれない。ほかに引用元として多かったのはフローベールで、ボヴァリー夫人でしか知らなかったが、意外にも聖アントワーヌと誘惑という幻獣がたくさん出てくる本を書いていたようだ。岩波文庫から出版されている。歴史を書いているはずのヘロドトスが引用されている箇所も多かった。あとはやはりギリシャ神話を出自に持つ怪物が多かったように思う。

 

おもしろかったが、網羅的でない点で不満もあり、もっと本格的な図鑑があればいいのにと思ってしまう。ほかにないか探してみよう。

幻獣辞典 (河出文庫)

幻獣辞典 (河出文庫)

 

 

インド・カレー紀行 辛島昇

インド料理というとカレーぐらいしかしらないが、この本によるとカレーとはイギリスがインドを植民地支配していた時代にイギリスで生まれた料理であって、インドにはカレーという料理はなく、むしろすべてがいわゆるカレー味のスパイスの組み合わせで味付けされているらしい。つまりインドに行くとカレーしか食べれないということだろうか。

 

もともとは、北インド料理は遊牧民に特徴的な乳製品を中心とした料理であり、南インドがスパイスを用いた料理を作っていたが、それが時代を経るにつれて混ざり合い、現在のインド料理になっていったということだった。本ではいろいろな料理が紹介されていたが、どれも同じように見えてあんまり記憶に残らなかった。おなかを壊すのが怖いが、インドに行ったらいろいろ食べてみたい。

 

また、インドで手をつかって食事をするのは、浄・不浄の観念が関係していると知った。インドのヒンドゥー教では浄・不浄の区別が非常に重要で、動物を殺すなどの不浄に分類される仕事は社会的に低いカーストのものがしている。不浄は触れると伝染してしまうため、バラモンなどの浄の位にいる人は、不浄の人が触ったものに触れないようにしなければならないようだ。なので、不浄の人が使った食器等を使わないで済むように、皿はバナナの葉などを使い捨て、スプーンを用いず手で食べる習慣が生まれたということだった。この本とは関係ないが、インドでは家にトイレがない場合が多く、野外排泄している人口が非常に多いとされているが、これもヒンドゥーの浄・不浄を切り分ける発想が根元にあり、トイレは不浄にあたるため家から離れたところに作らなければならないとされているらしい。インドでは宗教が今なお生活に深くかかわっているのだと知った。

カラー版 インド・カレー紀行 (岩波ジュニア新書)

カラー版 インド・カレー紀行 (岩波ジュニア新書)

 

ロリータ ウラジーミル・ナボコフ

ロリータは確か大学生の時に一度読んでいて、社会人になってからも読まないものの本棚に並べていたが、なぜかもう一度読みたくなった。

 

ロリータは最初読んだときはやたらエロいなとか、衝撃的な場面があったなとかぐらいの印象しか覚えておらず、終盤は早く読み終わりたくてパラパラ急いで読んでしまったのかあまり記憶がなかった。今回は注釈も一つ一つ読みながらゆっくり読んだが、おもしろくてどんどん読み進めてしまい、結構早く読み終わった。

 

今回の読書では、後半でロリータと再会したときに、ハンバートが涙を流しながらロリータに結婚資金を渡す場面が印象に残った。ハンバートは小児性愛者で犯罪者で普段は自分の快楽だけを考えている身勝手な人間で、物語の大半のロリータはその歪んだ視線によってひたすら欲望の対象としてしか映らないが、情事の後などハンバートが冷静になったときに、夢の合間の短い覚醒状態に見た光景のように、傷ついた少女の残像が作品の端々に表れていた。

 

そして私は今ふと思う、私たちの長かった旅行は、美しく、信頼にあふれた、夢見るような広大な国土を曲がりくねった粘液の跡で汚しただけのことで、もうその国土もすでに私たちにとっては、ふりかえってみれば、隅を折った地図や、ぼろぼろになった旅行案内書や、古いタイヤ、そして夜ごとの彼女のすすり泣きを寄せ集めたものにすぎなくなっていたのではないかーー毎晩、毎晩、私が寝たふりをした瞬間の。(p.311

 

ところどころ自分の欲望によってロリータを傷つけていることによるハンバート自身の葛藤も描写されていた。制御できない自分の本能にふりまわされた男が最後に彼女の幸せを願ったところが良かった。

 

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

 

 

年上の人 バスティアン・ヴィヴェス

バスティアン・ヴィヴェスはポリーナを読んではまって以来全部読んでいる(ラディアン以外)。ラディアンはお母さんがエロいことぐらいしか覚えていない。

 

バスティアン・ヴィヴェスの描く、いろんな関係性が重なり合った人間関係が好きだ。ポリーナでは、バレーの生徒であるポリーナと教師のポジンスキーは、ただ生徒と教師であるだけでなく、父と娘、男と女等のいろいろな関係を重なり合わせて描かれていた。同じように、年上の人でも、主人公のアントワーヌにとって父母の友人の娘であるエレーヌは、友人でもあり、姉のような存在でもあり、恋人としても描かれていた。というか帯にそうやって書いて売り出されている。

 

年上の人にはあからさまにエロいシーンが結構あって、そこがこれまでの作品とちょっと違った。ウエルベックとヴィヴェスを通してしかフランスをほぼ知らないのだが、フランスの女性はこんなにフェラチオをするのだろうか。

 

全体的に絵も物語も淡泊なのだが、最後にちょっと劇的なシーンももってきていて、そのあたりはさすがだ。普通に良作だった。

  

年上のひと (torch comics)

年上のひと (torch comics)

 
ポリーナ (ShoPro Books)

ポリーナ (ShoPro Books)

 

 

 

素粒子 ミシェル・ウエルベック

ウエルベックにドはまりしている。この本もおもしろかった。でも個人的にはプラットフォームの方がよかった。素粒子は登場人物が多く、それによって登場人物当たりの描写量が少なくなってしまって、深く感情移入する前に物語が進んでいってしまった感じがある。また、プラットフォームにはユーモアがたくさんあって肩の力を抜いて読めたが、素粒子は比較的シリアスだった。

 

3冊目にしてやっとウエルベックの中心がわかってきた。ウエルベックの中心は主に2つあると思う。

 

1つ目は近代合理主義に対する批判的な視点だ。ウエルベックは物質主義社会はこれまで宗教が支えていた道徳を破壊し、家族や社会などの共同体を破壊してわれわれの人生を不幸にした原因だと考えている。近代合理主義は個人を発見し、そこから自由が生じたが、一方で共同体から切り離されたことにより死の意識も生じ、それが不安の源泉になっている。また、近代合理主義によって宗教に支えられていた道徳が破壊されたことにより、これまで道徳によって抑えられていた暴力が噴出した。そこで、近代合理主義のカウンターとして、服従ではイスラム教が配置されていたが、素粒子ではそこにあたらしい人類が置かれていた。あたらしい人類は同様の遺伝子を持ち、みなが双子のような存在であるので、近代合理主義から生まれた個人・時間・空間の概念無力化され、それらが源泉となっている暴力もなくなるというものだった。

 

2つ目は恋人との性愛が、個人に幸せを与えてくれる非常に重要なものとして考えられている点だ。ウエルベック素粒子でもプラットフォームでも、自身に幸福を与えてくれる女性との登場によってつかの間の幸せが訪れる描写がある。結局のところ、それらは無残にも奪い去られてしまうのだが、この恋人との親密な関係が近代合理主義による厳しい社会から免れるサンクチュアリのように描かれている。このあたりの感じは、ゼロ年代初頭の日本のサブカルチャーセカイ系や純愛系に近いような感じがする。だからこそはまれるのだろうか。実際素粒子が書かれたのも2001年のようで、最近の本だという印象をもっていたが、20年近く経ってしまっているのだと驚いた。

素粒子 (ちくま文庫)

素粒子 (ちくま文庫)

 

 

物語 シンガポールの歴史 岩崎育夫

歴史系の新書だが不思議と文章に熱があってすごくおもしろかった。

 

シンガポールの特徴の1つは、通常とは異なる順序で国家が形成されたことだと理解した。

通常は、最初に集落があり、集落の中から長が生まれ、その長を中心に集落が発展し国家が形成されていく、という順序になると思う。一方、シンガポールの場合は、イギリスが何もないジャングルを貿易の中継地点と決めてから人が集まってきて歴史がスタートした。つまり、長が最初からいて、そこに人が集まってくるという逆の順序で国ができている。

また、そのような出自のため、国の制度にも確たるものがなかったため、独立後もリー・クアンユーによる強力なリーダーシップの下、経済発展を国是に、白紙のキャンバスに描くように制度が設計され発展してきたらしい(p.226)。

 

シンガポールの発展はリー・クアンユーの影響を抜きにしては語ることができないこともわかった。リー・クアンユーはマレーシアとの統一という目標に挫折した後、シンガポールという資源のない国を国際社会で存続させるためにゼロから社会制度を形成していった。シンガポールを存続させることすなわち経済成長を第一の目的とし、そこにすべての資源を投入しあらゆる障害を排除したようだ。リー・クアンユーは、マレーシアから独立した後に、シンガポールが生き残るためには悪魔と貿易してでも経済発展しなければならないとの趣旨の発言をしたらしい(p.200)が、その目的意識と責任感はどこから湧いてくるのだろう。リーは徹底したプラグマティストだったそうだが、道徳や個人の感情を捨てても必ず目的を達成するという姿勢には、何か憧れを感じてしまう。ギリシアテミストクレスも国民をだましてまで海軍力を増強し、それが当たってペルシアとの闘いに勝ったみたいなエピソードがあったが、歴史に名を残している政治家の自信と実行力はすごい。

 

物語 シンガポールの歴史 (中公新書)

物語 シンガポールの歴史 (中公新書)

 

ボヴァリー夫人 フローベール

ボヴァリー夫人の小説はユイスマンスのさかしまの中で褒められていたので興味をもって購入した。さかしま以外でも言及がなされていたように思う。なんでもフランス近代小説の祖と言われているらしい。

 

実際おもしろくて、実家に帰る前日から読み始めて3日で上下巻を読み終えてしまった。不道徳な小説はそれだけでも興味をそそるが、ボヴァリー夫人が身を持ち崩していく過程にはらはらしてつい一気に読んでしまった。レオンと最初に分かれたときにはお互いに気持ちも打ち明けられなかったのが、ロドルフとの恋を経て再開したときには、レオンに「あまりに底深く秘められて、ほとんど形のないまでに縹渺たるみだらさを、エンマはいったいどこでおぼえたのであろうか」と思わせるまでになっている。女性が恋する男によって不可逆的に変えられていくのはとても興奮する。コルセットのひもを音を立てて引き抜いて、着ているものをかなぐり捨て、レオンにとびかかる描写がほんとに好き(p.220)。

 

不倫が題材として扱われているものの、「理想と現実」のギャップに悩んで身を滅ぼす人がテーマになっている、とどこかで書かれていた(下の表紙に書かれていた)。理想をどこまでも追い求めるが、それは頭の中にしかなく、現実では決して見つからない、というのはよく扱われているテーマのように思うが、それに対する処方箋は何なのだろうか。フローベールも「ボヴァリー夫人のモデルは私である」と言ったそうだが(そしてそれの元はさらにセルバンテスドン・キホーテのモデルを聞かれたときの受け答えにさかのぼるそうだが)、実際理想を追い求めて現実をないがしろにする性質は自分にもだいぶあるような気がして、本を読んでいる間はボヴァリー夫人に対して軽蔑を感じていたが、他人事ではないのかもしれないと思うと空恐ろしくなる。

 

文章も、恋人と恋に落ちるシーンは印象的に描かれていた。ロドルフとは、上巻の最後の、役人のご高説とロドルフの口説きとが交互に書かれていて、今からしても新鮮味を感じる表現だった。レオンとは、窓を閉め切った馬車を延々走らせている描写が続いた後、窓からちぎれた手紙(交際を断る旨を描いたもの)が捨てられることで、馬車の中で二人の関係に進展があったことがほのめかされていた。ボヴァリー夫人は自由間接話法という手法を使った点で文章としても新しかったようで、新潮文庫の新訳が原文を忠実に訳してその感じを味わうことができるようなので、時間を空けてそちらも読んでみたい。

 

ボヴァリー夫人が死んだ後も、他の登場人物のその後が描かれていて、それらが悲しみを誘って耐え難かった。特にルオー爺さんの描写は胸に来た。シャルルは最後まで善良に描かれていて、涙を誘う。

 

meganeza.hatenablog.com

ボヴァリー夫人 (上) (岩波文庫)

ボヴァリー夫人 (上) (岩波文庫)