弐瓶勉を読む ~弐瓶勉から学ぶ人生論~

現代の日本に生きる私たちは、人生の意味や目的を見つけることが難しい状況に生きている。私たちは、たった一度きりのかけがえのないはずの一日一日を、だれの役に立っているのかもわからない仕事に費やしてくたくたになった後ベッドで気を失い、気が付けばもう次の日がやってきてしまう。私たちはどこかで人生を間違ったように感じており、自分が進んできた道を振り返ろうとするが、意味のない仕事や日常の雑事や知り合いからのLINEが立ち止まることを許さない。

 

現代における生きる意味を見つけることの難しさは、現代の社会状況の変化と合致していると思われる。消費社会の浸透やそれに伴う社会の流動性の上昇の結果として、国家や歴史などこれまで価値を規定してきたものがなくなり、人によって正しいと感じるもの、価値があると感じるものがバラバラになった。その結果、現代にはみなが考える「正解」がなくなり、どこを探してもどのように生きればよいのか答えが見つからない状態になってしまった。

 

このような社会状況の変化は、現代のフィクションや独身男性の迷える魂のるつぼである国内同人誌におけるジャンルの変遷にも表れているように思われることを前回の文章で述べた(弐瓶勉を読む ~シドニアの騎士とゾンビ化するヒロイン~ - 心を殺せ 情熱は殺すな)。すなわち、現代において社会における価値観を支えてくれていたもの(コミュニティや思想など)が効力を失っていく中で、最後のよりどころとして物語に登場したのがヒロインであり(純愛もの・セカイ系)、それすらも絶対ではないことを暴くものがネトラレ作品だと思われた。

 

ネトラレ作品では、主人公は唯一の生のよりどころであるヒロインを残虐な形で間男に寝取られることとなり、主人公の最後の生きる意味は奪われてしまう。その結果、主人公の価値観のよりどころはどこにも見当たらないことになり、人生の意味も目的も見つけられなくなってしまう。ネトラレ作品の主人公は人生の意味を奪われている点で私たちと同じではないか。私たちはネトラレ作品の主人公のように人生を生かされているのではないか。私たちは自分たちの人生の主人公になることを望んだが、決してネトラレ作品の主人公になりたかったわけではない。

 

生まれながらにしてネトラレ作品のような世の中に迷い込んでしまった私たちはどうすればよいのか。

 

ここで、弐瓶勉を見てみよう。以前の文章で述べたとおり、弐瓶勉の多くの長編においても、ネトラレ作品のような物語展開がとられていた。それは、主人公ではなく、サブ主人公とでもいうような位置にいたキャラクターがヒロインと性的に結ばれることで物語が終わる点だ(弐瓶勉を読む - 心を殺せ 情熱は殺すな)。

 

弐瓶勉の作品においても、主人公たちは過酷な生を生かされている。それでは弐瓶勉の作品が悲壮感にあふれているかというと、そういうわけではない。確かに弐瓶勉の作品世界はどれも暗い。しかし、主人公たちはそのような過酷な境遇にありながらも、決して折れることなく、彼らの目的のために懸命に人生に立ち向かっていく。そこには希望すら感じられる。一体どうすれば私たちは弐瓶勉の作品における主人公たちのように不屈の意思をもって、この糞山のような人生に立ち向かっていけるのだろうか。彼らを支えている秘密とは何なのだろうか。

 

この文章では、ネトラレ作品と同様の構造に置かれていた弐瓶勉の作品を分析し、主人公がどのように彼らの人生に向き合っていたかを検討することで、私たちが人生の生き方を考える助けにしようと思う。弐瓶勉の作品の主人公たちは、ネトラレ作品のような過酷な物語の中で、どのようにしてその人生を続けていくことができたのだろうか。

 

結論から述べると、私は、弐瓶勉の作品から、(1)夢、(2)コミュニティ、(3)パートナー、の3つの要素をバランスさせることが、現代社会を生きていくうえで大事なのではないかと考えた。

 

(1)夢

1つめの鍵となるのは、夢である。夢とは、自分の人生に自ら設定する目的のことだ。


弐瓶勉の作品の主人公は、その全員が非常に明確な目的を持っている。BLAME!の主人公である霧亥は「ネット端末遺伝子を探すこと」、アバラの主人公である電次は「白奇居子を倒すこと」、バイオメガの主人公である造一は「イオン・グリーンを奪還すること」、シドニアの騎士の谷風は「ガウナからシドニアを守ること」である。特に初期の三作品に顕著であるが、主人公は目的達成を第一に考える人間味の薄いキャラクターとして描かれる場合が多い。基本的にこれらの主人公たちは、自身の目的に疑いを持つことはなく、ヒロインや仲間が死んでもその屍を超えて自分の目的達成のために進んでいく。夢を「人生の目的」ととらえれば、これらの弐瓶勉作品における主人公たちは非常に強固な夢を持っていると言い換えることができるだろう。


現代に生きる私たちにとっても、夢は特別な地位を持っている。私たちは子供のころから自分の夢を考える機会が数多く与えられ、就活においても自身の「やりたいこと(=夢)」を仕事にするようにと言われる。「何者かになる」という目標は、無目的な人生にゴールを設定することで、空費されていく毎日をゴールにつながる一本道のように錯覚させ、有意義に感じさせてくれるものだ。


この夢は、外部の力に比較的頼らず人生を支えることができる点で、他の価値観を支えるものよりも優れているように思われる。例えば、共産主義等過去に価値観を支える役割を果たした思想は、同じ考えを共有する人々が一定程度存在しなければ価値観として機能しづらいが、夢は一人でも持つことが可能だ。どれだけ周囲から狂っていると思われても、自分さえ信じることができれば、夢はその人の人生を意味あるものにし続けることができる。このような特徴があるからこそ、これまで価値観を支えてきた思想などの力が弱まってきた現代において、夢を持つことが相対的に強調されるようになってきたのかもしれない。


しかしながら、現代においては、この夢を持つことすらも困難になっているように思われる。私たちはインターネットにつなげられ、世界規模の競争に否応なく巻き込まれてしまう。私が子どものころは、小学校で一番スマブラがうまいとまるで自分が世界一うまいかのような全能感を味わうことができたが、今では自分よりもうまい人たちがネットを通じて容易に見つかり、自分が凡人であることをあらかじめ思い知らざるをえない。そのような状況にあっては夢を抱くこと自体が困難である。また、幸運にも夢をもつことができたとしても、その夢を胸に抱き続けることもまた難しくなりつつあるように思う。現代に生きる私たちは、それぞれが全く異なった価値観を持っている。それらの人の中には、当然、私たちとは真逆の価値観をもつ人もいるだろう(スマブラがうまくて何になるんだ?!)。私たちは、そのような異なる価値観からの攻撃に耐えながら、実現できるかどうかわからない夢に向かって進み続けなければならない。このように、価値観が多様化したことによって、自身の夢に反対する価値観が避けられないことも、夢を抱き続けることを難しくしている一つの要素であるように思われる。


さて、弐瓶勉の作品において、この夢を追うことの困難さはどのように描かれているのだろうか。実は、弐瓶勉の作品においては、夢を追うことの困難さの側面はほとんど扱われていない。というのも、弐瓶勉の作品では、夢の追求の困難さをあらかじめ回避するような設定が作中に盛り込まれているのである。
弐瓶勉の長編作品の主人公は、全員が「人造人間」である。BLAME!の主人公である霧亥はセーフガード、アバラの主人公である電次は黒奇居子に改造されており、バイオメガの主人公である造一は東亜重工製の合成人間、シドニアの騎士の谷風は伝説的なパイロットであった斎藤ヒロキのクローンだ。


私たちのような普通の人間は、無意味な生を受け、その生を意味あるものにするために夢を探すことになる。一方で、人造人間とはそもそも何か必要があって生み出されるものだ。彼らにとっては、生まれることは無意味なものではありえない。彼らにとっては、夢=目的を追求することこそが生み出された意味なのであり、どれだけその夢の実現が困難であろうともそれを捨てることはない。このように、「人造人間」という設定によって、弐瓶勉の主人公には「夢をあきらめる」というオプション自体が存在しないため、作中では夢を追うことの困難さという側面は描かれないまま放置されてしまっているのである。


ここまで見てきたように、夢は私たちの人生に意味を持たせてくれるものであるように思われ、弐瓶勉の作品の中でも重要なものとして描かれている。しかしながら、現代における夢を持つことの難しさは弐瓶勉の作品においては取り上げられておらず、現実にそれをどう克服していけばよいのかは弐瓶勉の作品からだけではつかむことができない。

 

(2)コミュニティ

2つ目はコミュニティである。


弐瓶勉の長編は、最近のものになるにつれ、コミュニティが描写されるようになっていく。第一作目の長編であるBLAME!や二作目のアバラでは、コミュニティの描写はほとんどない。主人公の味方はごく少人数に限られ、その味方でさえも死んだり離別することになる。ところが、三作目のバイオメガから味方の数が増え始め、仲間同士のコミュニケーションの場面や共闘する場面が描かれるようになっていく。そして四作目のシドニアの騎士では、シドニア船内の住民とのコミュニケーションの描写に作品の半分ほどが割かれるようになる。


コミュニティもまた、私たちの人生や価値観を支えてくれるものである。私たちはコミュニケーションを通じて他者から必要とされている感覚を得ることができる。また、通常私たちは自分たちと価値観が近しい人たちとコミュニティを形成することになると思われるので、同一の価値観を持つことが難しい現代においても、コミュニティ内であれば同じ価値観を共有することができ、コミュニティの内部においては限定的に人生の意味を形成していくことができる。例えば、マイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう」などに代表されるコミュニタリアリズムの思想は、価値観の基盤としてコミュニティを重視している。


現代におけるもっとも身近なコミュニティとしては家族や職業から生じる人間関係があると思われるが、「独居は,性・年齢に関わらず孤独感による自殺死亡の危険因子」*1であることや、「男女ともに離別および無職は一貫して自殺のリスクを高めうる」*2ことを示す統計情報があり、このようなデータからも、コミュニティが私たちの生きる目的を支えるものとして機能していることがうかがえる。


それでは、私たちはこのコミュニティだけを頼りに現代を生きていくことができるだろうか。私には、それもまた困難であるように思われる。現代社会は流動性を高め、これまで日本社会にあった村や家などのコミュニティを崩壊させてしまった。それだけでなく、戦後社会に年功序列によって新たなコミュニティを提供した日本企業も、昨今の競争の激化により雇用形態の変更を余儀なくされており、そのコミュニティを提供する役割はどんどん小さくなっていくことが予想される。他には、同じ趣味を共有する共同体なども考えられるが、これらは簡単に入ることも抜けることもできるため、流動性が高すぎて、これまでの共同体が担っていたような役割を果たすのは難しそうだ。最後に残ったのは核家族ぐらいだが、子供も成人すれば家を出ることが普通になった今、人生のすべての期間を家族と暮らしていくのは難しいだろう。


弐瓶勉の作品では、この現代におけるコミュニティ形成の困難さはどのように扱われているのだろうか。実は、弐瓶勉の作品では、このコミュニティ形成の困難さの側面についても設定上の工夫によって回避されている。


最もコミュニティの描写にページが割かれている「シドニアの騎士」の作品の舞台は、宇宙を航行する「シドニア」という船である。作中にはシドニア以外の船や人が生きている惑星などは登場しないため、シドニアからの人口の流出や流入は想定されず、シドニアは完全な閉じられたコミュニティとなっている。そのため、シドニアでは、現代における困難さに直面することなくコミュニティが維持されてしまうのである。


このように、コミュニティもまた私たちの人生に意味を持たせてくれるものであるように思われ、弐瓶勉の作品でも最近の作品になるにつれその重要さを増していっている。しかしながら、またしても、現代におけるコミュニティを形成することの難しさは弐瓶勉の作品においては取り上げられておらず、現実にそれをどう克服していけばよいのかは弐瓶勉の作品からだけではつかむことができない。

 

(3)パートナー

 

夢もコミュニティも困難さに対する解決策が見当たらないとすれば、それでは他に何があるだろうか。3つ目は、パートナーである。


パートナーの存在は、これまで弐瓶勉の作品の読解を通じてみてきたように、ネトラレ的な物語によって、その実現の困難さが繰り返し描かれてきたものであった。しかしながら、恋愛映画におけるヒロインのようなパートナーは現実にはいないとしても、やはりパートナーの存在は私たちの人生を意味あるものにするために重要な役割を持っているように思う。


弐瓶勉の作品では、ヒロイン=パートナーは、サブ主人公と性的に結ばれるネトラレ的な物語によって、その不可能性が表現されているのであるが、その一方でパートナーを持つことによる希望も執拗に描かれているように思われる。例えば、弐瓶勉の作品には「異質の敵との異種交配によって生まれた子どもが戦いを終わらせる」という展開が繰り返し登場する。

 

この展開が最も明確にあらわれているのは、弐瓶勉の短編集「ブラム学園! アンドソーオン」に収録されている「ZEB-NOID」という短編だ。この作品では、進化して宇宙空間に適応した蝿と人類が終わりのない戦いを繰り広げていたが、突然変異によって生まれた人型の蝿と人類が異種交配によって子孫を残せるようになったことによって戦いが終わる。同様の展開は、シドニアの騎士においても見出すことができる。シドニアの騎士では、蝿ではなくガウナという敵との間で戦いが行われているが、ガウナと人間のハーフである白羽衣つむぎが作中で重要な役割を持つことになる。また、BLAME!では、セーフガードのサナカンと人間のシボが子どもを作り、その子どもがBLAME!世界を救う鍵を握っていることを示唆して作品が終わる。バイオメガにおいては、異種交配と子どものモチーフは切り離されて登場するが、そのどちらもが物語の結末に深くかかわっている。バイオメガでは、外見上クマであるコズロフと人間であるイオン・グリーンとが結ばれることによってゾンビ禍が終了するが、ここに異種交配のモチーフが登場している。また、物語中盤から、復物主の子どもであるフニペーロというキャラクターが登場し、主人公と行動を共にすることになるが、このフニペーロも物語の展開に重要な役割を占めており、上で見てきたような子どものモチーフに該当すると思われる。アバラにおいても、異種交配と子どものモチーフは切り離されて登場していると思われる。異種交配の明確なモチーフは登場しないが、黒奇居子という設定自体が白奇居子と人間のハーフのような存在であり、黒奇居子という設定に異種交配が組み込まれていると見ることができる。また、アバラでは、先島とタドホミが別世界に脱出してアダムとイブになることを示唆して物語が終わるが、まだ生まれてはいないものの、ここに子どものモチーフを読みこむことができるだろう。


このように、弐瓶勉の作品では「異種交配」「子ども」というモチーフが繰り返し登場し、それらが物語の結末に重要な役割を果たしている。異種交配とは、異質な他者との性的なつながりを表すモチーフのように思われる。価値観が多様化した現代に生きる私たちにとって、他者とは価値観を全く異にする異星人のようなものだ。異種交配とは、現代における私たちが他者との間で性的に密接な関係を取り結ぶことがあらわされているのではないか。そして「子ども」のモチーフとは希望を表しているように思われる。子どもとは人間の一生の中で最も可能性に満ち溢れた状態であるからだ。私たちは子どもの中に無限の可能性を読み込むことができる。このように考えると、「異質の敵との異種交配によって生まれた子どもによって戦いが終わる」という展開は、現代に生きる私たちがそれでもなお他者と関係を持つことによる希望を表しているように思われる。


一方で、これまでの文章で見てきたとおり、弐瓶勉は、ネトラレ的な物語展開によって、現代において運命の人を見つけることの困難さも描いてきた。現代には運命の人など存在しない。私たちの目の前に現れるのは、赤い糸で結ばれた相手ではなく、マッチングアプリで順位付けされ比較検討された上で自ら選択した代替可能な相手である。仮に運命的な出会いを果たしたとしても、その相手にはこの先長い人生において離婚の危機や無数の不倫の機会がある。そのような現代において、私たちはどのようにパートナーと向き合うべきか。


一つの解決策は、相手が運命の人ではないことを承知の上で、相手を自分のことを全承認するように作り替えてしまうことだ。それが催眠もので用いられている想像力であり、かつシドニアの騎士においてもみられることを前回の文章で述べた(弐瓶勉を読む ~シドニアの騎士とゾンビ化するヒロイン~ - 心を殺せ 情熱は殺すな)。しかし、このような方法は目の前にいる他者を塗りつぶして別の意思を持たない(または自分にとって都合のいい意思を持つ)存在に変えてしまう暴力的な行為であり、このような方法の先に明るい人生が待っているとは思えない。

 

それでは私たちはどのように異星人のような他者と向き合うべきか。
それは、相手が代替可能な、何でもない存在であることを承知の上で、赤い糸で結ばれた運命の人のように扱うことだ。しかし、相手は運命の人ではない。相手はネトラレたり不倫したり、そもそも私たちが思っていたような素晴らしい相手ではないかもしれない。もし相手が不倫した場合に、私たちはどうふるまえばよいのか。私は、そのときにこそ、これまで見てきた夢やコミュニティを頼るべきだと考える。

 

(4)夢・コミュニティ・パートナーをバランスさせること

ここまで、生きる意味を見出しづらい現代において生きる意味を見出すための方法として、弐瓶勉の作品には、夢、コミュニティ、パートナーの3つのアイデアが登場することと、そのどれもが現代においては通用しづらいことを見てきた。私は、この状況を解決する革新的なアイデアを持っているわけではない。平凡な私に思いついたのは、「1つ1つが通用しづらいのであれば、それらを3つとも用いればいいのではないか」というものである。


パートナーは不倫するかもしれない。パートナーが不倫したとき、もしそのパートナーが自分にとって唯一の生きる意味であった場合、その状況は危機的だ。しかし、自分に夢やそのほかに頼れるコミュニティがあれば、その困難を乗り越えられる可能性は高くなるだろう。


同じように、幼いころから1つの夢だけを追いかけてきた人が、取り返しのつかない年齢になってその夢が達成困難だと気づいたとき、周りに支えてくれるパートナーやコミュニティがあるかどうかで、その人が新たな人生を歩むことができるかが大きく変わるように思われる。


就職してから仕事一筋で会社に人生をささげてきたサラリーマンが首になったとき、その人に家庭があるか・会社に縛られない夢があるかは、その人が立ち直ることができるかどうかに深くかかわっているように思う。


このように、現代においては夢もコミュニティもパートナーも一つ一つは不安定ではあるが、その3つをバランスよく自分の中で位置づけることによって、そのうちのどれかが崩れたとしても人生の意味を失ってしまうことなく、生き続けることができるのではないだろうか。