弐瓶勉を読む

弐瓶勉は自分が最も好きな漫画家だったのだが、シドニアの騎士ぐらいからそれまでの作品ほどはまれなくなった。自分が昔の弐瓶勉のどこが好きで、なぜ好きじゃなくなってしまったのかを考えた。

 

方法として、弐瓶勉の作品に共通して登場するモチーフについて考えることにした。弐瓶勉の作品には、別々の作品であっても似通ったモチーフが登場する。たとえば、シドニアの騎士までの4作品(BLAME!、アバラ、バイオメガシドニアの騎士)には共通して、味方が敵に作り替えられてしまう描写が登場する。このような共通のモチーフに感情移入し共感できていたのに、モチーフが使われなくなっていったために共感できなくなったことが、作品にはまれなくなった理由なのではないかと考えたからだ。

 

それでは具体的にどのようなモチーフが使われていたかを挙げ、それらに自分がどのように感情移入していたかを考える。

 

まず、冒頭にも取り上げたが、弐瓶勉の作品には味方が敵に作り替えられてしまう描写が共通して登場する。BLAME!では、電気猟師がセーフガードに作り替えられてしまう。アバラでは、普通の人間が奇居子に変わって襲ってくる。バイオメガではゾンビウイルスが蔓延している。シドニアの騎士でも、がうなに食べられた操縦士をがうなが模倣して帰ってくる描写がある。

このモチーフに対し、自分は自分の対人不安を読み込んで共感していたのではないかと思う。よく知り合った人でも相手のことを完全に知り尽くすことはできない。味方が敵に作り替えられるというモチーフは、根本的に他者を知ることはできず、常に裏切られてしまうのではないかという恐怖と付き合っていかなければならないという、他者とかかわることの不安な側面を象徴できるモチーフだと思う。

また、ほかでもないヒロインが敵に作り替えられ、主人公と敵対する展開もたびたび登場する。BLAME!ではシボはセーフガードになり、アバラでは亜由多が白奇居子になる。シドニアの騎士においても星白を模したがうなが登場する(バイオメガには該当なし)。ヒロインという主人公に最も近しい距離にいる女性が敵に変わってしまうところは、上記のモチーフの特徴をより強調していると思う。

 

このほかにも、対人不安を象徴できるモチーフは登場する。他の例を挙げると、弐瓶勉の作品には知的しょうがいを負ったヒロインが共通してでてくる。BLAME!ではレベル9シボ、アバラでは那由他バイオメガではイオン・グリーン、シドニアの騎士はえな白が該当する。

知的しょうがいを負ったヒロインも、対人関係に自信のない自分が感情移入しやすいモチーフになっているように思う。普通の知的能力をもった相手に対しては対人不安が生じてしまうが、知的しょうがいを持っている場合には裏切られることはないからだ。

泣きゲーのヒロインにも知的しょうがいをもった女性が登場するらしいが、下記貼り付け先のブログではその理由として「制御困難な他者としての異性に対する不安の防衛」としてはたらいていたのではないか、という同様の考察がなされている。泣きゲーのヒロインに障害が必要だった理由----か弱いヒロインのfunction 貼り付け元  <https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20100703/p1> )

 

また、主人公を支援する双子のような存在が登場する点も共通している。BLAME!ではサナカン、アバラでは那由他が該当する。バイオメガでは、該当するとすれば同じ識臣で育てられた壬二珠が挙がると思うが、先の2作品ほど双子感はない(シドニアには該当なし)。双子のような存在は、他人ではなく自分の鏡写しであるがゆえに、対人不安を抱かさない存在である。

 

ここまで挙げた例から、自分は、ヒロインが敵にかわってしまうという展開に、得体のしれない不安なものとしての他者感を読み込んで、無意識に共感して惹きつけられていたのではないかと思う。また、対人関係に自信のない自分にとって不安を抱かせない心地のよいモチーフがそろえられていたことも、自分を引き付ける要因のひとつになっていたと思う。

また、これだけではなく、そのほかの展開においても、自分の共感を呼びおこすものが繰り返し登場する。

 

例えば、弐瓶勉の作品では、主人公が大切なものの防衛に失敗する展開がよく登場する。BLAME!ではほとんど全編を通じて防衛に失敗しているが、東亜重工編で電気猟師が虐殺されていく場面や、非公式階層編でシボと別れてしまう場面等が印象的だ。アバラにおいては守れなさ過ぎて地球が滅亡している。バイオメガでも、イオン・グリーンの奪還に失敗し続け、奪還したと思ったら敵に目的を果たされてしまう。また、物語中盤で主人公を助けてくれた村人の村が徹底的に壊滅させられる場面がある。シドニアでは、星白を守れないという重要な展開はあるが、そのほかには防衛に失敗する場面は思い浮かばない。

これらの防衛に失敗する場面にも、対人不安等からくる自己の不能感から感情移入していたのではないかと思う。

 

最も重要なのが結末の展開だ。弐瓶勉の作品には結末においても共通点がある。それは、サブ主人公とでもいうような位置にいたキャラクターがヒロインと性的に結ばれることで物語が終わる点だ。

BLAME!では、サブ主人公としてはサナカンが該当する。サナカンはヒロインのシボとの間で子供を作り、その子供が汚染されていないネット端末遺伝子(BLAME!世界を救う鍵)をもっていることを示唆して物語が終わる。アバラでは、サブ主人公の先島はヒロインのタドホミと別の世界に脱出し、アダムとイブになって終わる。バイオメガにおいても、コズロフがイオンと結ばれることでゾンビ禍が終わり、ハッピーエンドを迎える。一方で、シドニアの騎士においてはこのような結末はとられていない。

この共通する結末は、いわゆるセカイ系の物語における結末と類似している。セカイ系とは、アニメ・漫画・ゲーム・ライトノベルなど、日本のサブカルチャー諸分野における物語の類型の一つであり、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と東浩紀らによって定義されているが(貼り付け元  <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB>)、弐瓶勉の作品においては、主人公の代わりにサブ主人公がヒロインと結ばれることで世界が救われることとなる。主人公が主人公であるにも関わらず、世界を救うことに直接的に関与できず、しかもヒロインはそばにいないという、自分の不能感を刺激するまるでネトラレのような結末に、自信のない自分は強く惹きつけられていたのではないかと思う。

 

ここまで弐瓶勉の作品に共通するモチーフを取り上げ、それらのモチーフが対人不安や、自信のなさをもっている自分の共感を引き起こしていたのではないかということを見てきた。それでは、最初に立てた仮説のとおり、これらのモチーフは作品に登場しなくなっていったのだろうか。結果としては、実際に登場しなくなっていると思う。下表は上で見てきた要素をまとめたものである。

 

BLAME!

(1997-2003)

アバラ

(2005-2006)

バイオメガ

(2004-2009)

シドニアの騎士

(2009-2015)

知的しょうがいをもったヒロイン

双子のような存在

×

ヒロインから敵への変身

×

防衛失敗

サブ主人公とヒロインがくっつく結末

×

 

以上から、自分が最近の弐瓶勉にはまれなくなった理由のひとつに、対人不安や自信のなさをもった自分が共感できるモチーフ・展開があまり登場しなくなったことがあると考えた。

 

BLAME!(1) (アフタヌーンコミックス)

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ABARA 上 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

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スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険 模造クリスタル

スペクトラルウィザードの続編があるとはまさか思っていなかったのでほんとにうれしかった。前作はここ最近で一番好きなマンガだった。今作は前作よりももっとエンタメ感が強いように思ったが、心にささる心情描写もあって前作に負けず劣らずよかった。

 

今作はクリスタルウィザードの行動を中心に騎士団の謎にせまっていくミステリー仕立てになってて、ストーリーで先を読ませる作品になってた。作者の作品はこれまではキャラクターの心情描写が中心でストーリーはそこまでメインな感じではない印象だったので意外だった。前作(無印)の最終話もストーリーメインだったので、それのテイストに近いと思う。

 

前作では輝かしい過去と現在を対比し、そこから生じる憧憬や後悔などの後ろ向きな感情が中心に置かれていたが、今作はサブキャラのミサキちゃんのスペクトラに対するかかわり方を通じて、人とのかかわり方がメインのテーマの1つになっていたと思う。

 

主人公のスペクトラは魔女、ミサキちゃんは魔女を取り締まる騎士団の一員で、立場上は対立関係にあるが、スペクトラがあまり敵対的でなくピンチのときにはスペクトラの支援を仰ぐなどふわっとした友好的な関係を築いていた。しかし、ミサキちゃんのスペクトラに対するかかわり方は「魔女を取り締まる」という目標に向かうためのもので、いうならば目標達成の道具としてスペクトラをいいように利用していた面があった。騎士団という警察組織の価値観、すなわち正義感に忠実なことが風紀委員長みたいなミサキちゃんを形成していた。

一方で、そのような道具のように扱う中でもミサキちゃんのスペクトラに対する感情ははぐくまれていた。スペクトラと対立したときに、これまで意識していなかった自分のスペクトラに対する感情と、自分の中心であった正義感が緊張関係になり、そこからの展開でやばいカタルシスを生み出していた。

 

この作者はスペクトラルウィザードシリーズでキャラクターデザインとカタルシスの作り方がすごくうまくなっているように思う。今作もぽけーっと読み進めていたら最後にそんなところに盛り上がりをもってくるのか、とびびってしまった。キャラデザも絶妙なデフォルメで、出てくるキャラクター全員がむちゃくちゃかわいくてページをめくってるだけで幸せになる。

 

 

深夜特急 沢木耕太郎

読んでると昔した一人旅行を思い出して懐かしくなった。これまで一人旅行したのは鎌倉、諏訪、東北の三回で、どれも1~2泊ぐらいの小規模なものだった。その中では諏訪の旅行が一番印象に残っている。電車の扉が押ボタン式なのを知らないで扉の前で待っていたことや、小雨の中上下4つの諏訪神社をまわったことや、止まった古い旅館の畳で寝転がりながらシャドウバースをしていたことなど、なんでこんなこと覚えているんだろうと思うような細部もなぜか記憶に残っている。

 

自分が一人で旅行に行くときに特に明確な理由はなかった。一人でいた方が気楽だけど、まとまった休みに何もやることがないので、どうせなら旅行でも行くか、というのがいつもの感じだったように思う。自分のことをそれほど一人旅好きだとは思わないが、3回も行ってるということは嫌いでもないのかもしれない。でも一人旅から得られた経験は、支払ったコストと比較してそれほど多かったのだろうかと考えると悩んでしまう。自分は一人で旅行に行って何かコストに見合う経験を得たのだろうか。なにも思い当たるものがない。旅先で買ったちゃっちいお土産のような思い出のかけらが、そこそこの時間と安くはない費用を支払って手に入れたかったものなのだろうか。

 

この本を読んでも、作者がなぜ旅をしようと思ったのか、旅をして何を得たのかははっきりとは描かれていなかった。異なる文化に触れて感じたことや、住民とのコミュニケーションや、たまの内省が書かれてはいるが、肝心の旅の明確な動機はないままに話が進んでいった。電車を勧める駅員との言い争いの場面で、その動機のなさが表面化していたように思う。駅員から電車を使えと言われているのにバスで行きたいと言い張って、その理由をうまく言えずとにかく行きたいのだと作者が主張するところでは、駅員の方に感情移入して、バスで行きたい理由がなければ電車でいいではないかと思ってしまった。結局、この作者が何でバスで行きたかったのか、そもそもなんで一人旅をしようと思ったのか、この旅によってその目的が達成されたのかは、最後まで読んでもわからなかった。

 

答えが明確に書かれていなかったので、読み終わった後、何が旅の魅力(旅の目的となりうるもの)なのかいろいろ考えてしまったのだが、旅行とは、楽しみのために、(1)出発地から離れて、(2)別の場所に行くこと、だと言えそうだ。

(1)からは、①日々の仕事等の義務・人間関係のしがらみ等、日常におけるネガティブな要素から離れられること、②日常ではなかなか持てなかった一人の時間(または同行人との親密な時間)が持てること、等の魅力が引き出せるように思う。

(2)からは、③異なる文化に触れて自己の価値観を相対化できること、④美しい自然や芸術やおいしい食べ物を楽しめること、⑤旅先で出会うトラブルの解決を通じて達成感を得られること、等の魅力が引き出せるように思う。

 

個人的には、④をもっとも重視しつつ、若干⑤もあればいいなぐらいの気持ちで旅行に行っている気がする。①や②はあんまりないし、③のようなことを特別意識しながら旅行に出たこともないと思う。⑤は、積極的には望んではいないけど、何の不安もないツアーより自分でコースを考えて行く方が好きだし、トラブルに出会った旅の方がなんだかんだいい思い出になっているので、消極的に欲している感がある。

実際には、①②④あたりを目的に旅に出たらそのほかのもごちゃまぜになってふりかかってくる複合性というかランダムさも旅の魅力を構成する要素のように思う。

 

ここまで考えて、旅行には明確な目的はやはりなくてもいいような気がしてきた。最初に何か目的があったとしても、向こうからごった返して魅力が押し寄せてきて、最初の目的ももみくちゃになってよくわからなくなるけど、あとからふりかえってなんかまた行きたいとなるのが旅行なのかもしれない。

 

この本を読んで中東に行ってみたくなった。青空が広がっている砂漠の町というのはとてもよさそうだ。

 

深夜特急1?香港・マカオ? (新潮文庫)

深夜特急1?香港・マカオ? (新潮文庫)

 

 

幻獣辞典 ホルヘ・ルイス・ボルヘス

辞典という題名がついているものの、掲載されている幻獣は西洋系が中心だった。言語的な問題から仕方ないのか、日本の妖怪系はまったく収録されていなかった(ぬりかべとか)。収録の基準もあいまいで、カフカCS・ルイスの想像した動物は細かく収録されていたが、これらを収録するならポケモンも全部載せてほしい。一方で、ラミアやセイレーンなどの、ウィッチャー3に登場したモンスターの背景を知ることができたのはよかった。

 

子供のころは図鑑が好きで、よくおじいちゃんに買ってもらった動物図鑑や魚図鑑を眺めていた気がする。それにオカルト系の本も好きだった(吸血鬼の家族の絵本とか学校の七不思議系とか)ので、子供のころから趣味が変わっていないなと思う。

 

出展はプリニウスの博物誌からが多くて興味を持ったが、幻獣だけでなく世界のすべてについて記述した百科事典的な本で、元は37巻もあるみたいだ。Wikipediaによると、ルネサンス期の15世紀に活版印刷で刊行されて以降、ヨーロッパの知識人に愛読されてきたらしい。幻想文学にも影響を与えたと書いてある。日本語版だと全5巻ぐらいで出版されているようなので、買ってみてもいいかもしれない。ほかに引用元として多かったのはフローベールで、ボヴァリー夫人でしか知らなかったが、意外にも聖アントワーヌと誘惑という幻獣がたくさん出てくる本を書いていたようだ。岩波文庫から出版されている。歴史を書いているはずのヘロドトスが引用されている箇所も多かった。あとはやはりギリシャ神話を出自に持つ怪物が多かったように思う。

 

おもしろかったが、網羅的でない点で不満もあり、もっと本格的な図鑑があればいいのにと思ってしまう。ほかにないか探してみよう。

幻獣辞典 (河出文庫)

幻獣辞典 (河出文庫)

 

 

インド・カレー紀行 辛島昇

インド料理というとカレーぐらいしかしらないが、この本によるとカレーとはイギリスがインドを植民地支配していた時代にイギリスで生まれた料理であって、インドにはカレーという料理はなく、むしろすべてがいわゆるカレー味のスパイスの組み合わせで味付けされているらしい。つまりインドに行くとカレーしか食べれないということだろうか。

 

もともとは、北インド料理は遊牧民に特徴的な乳製品を中心とした料理であり、南インドがスパイスを用いた料理を作っていたが、それが時代を経るにつれて混ざり合い、現在のインド料理になっていったということだった。本ではいろいろな料理が紹介されていたが、どれも同じように見えてあんまり記憶に残らなかった。おなかを壊すのが怖いが、インドに行ったらいろいろ食べてみたい。

 

また、インドで手をつかって食事をするのは、浄・不浄の観念が関係していると知った。インドのヒンドゥー教では浄・不浄の区別が非常に重要で、動物を殺すなどの不浄に分類される仕事は社会的に低いカーストのものがしている。不浄は触れると伝染してしまうため、バラモンなどの浄の位にいる人は、不浄の人が触ったものに触れないようにしなければならないようだ。なので、不浄の人が使った食器等を使わないで済むように、皿はバナナの葉などを使い捨て、スプーンを用いず手で食べる習慣が生まれたということだった。この本とは関係ないが、インドでは家にトイレがない場合が多く、野外排泄している人口が非常に多いとされているが、これもヒンドゥーの浄・不浄を切り分ける発想が根元にあり、トイレは不浄にあたるため家から離れたところに作らなければならないとされているらしい。インドでは宗教が今なお生活に深くかかわっているのだと知った。

カラー版 インド・カレー紀行 (岩波ジュニア新書)

カラー版 インド・カレー紀行 (岩波ジュニア新書)

 

ロリータ ウラジーミル・ナボコフ

ロリータは確か大学生の時に一度読んでいて、社会人になってからも読まないものの本棚に並べていたが、なぜかもう一度読みたくなった。

 

ロリータは最初読んだときはやたらエロいなとか、衝撃的な場面があったなとかぐらいの印象しか覚えておらず、終盤は早く読み終わりたくてパラパラ急いで読んでしまったのかあまり記憶がなかった。今回は注釈も一つ一つ読みながらゆっくり読んだが、おもしろくてどんどん読み進めてしまい、結構早く読み終わった。

 

今回の読書では、後半でロリータと再会したときに、ハンバートが涙を流しながらロリータに結婚資金を渡す場面が印象に残った。ハンバートは小児性愛者で犯罪者で普段は自分の快楽だけを考えている身勝手な人間で、物語の大半のロリータはその歪んだ視線によってひたすら欲望の対象としてしか映らないが、情事の後などハンバートが冷静になったときに、夢の合間の短い覚醒状態に見た光景のように、傷ついた少女の残像が作品の端々に表れていた。

 

そして私は今ふと思う、私たちの長かった旅行は、美しく、信頼にあふれた、夢見るような広大な国土を曲がりくねった粘液の跡で汚しただけのことで、もうその国土もすでに私たちにとっては、ふりかえってみれば、隅を折った地図や、ぼろぼろになった旅行案内書や、古いタイヤ、そして夜ごとの彼女のすすり泣きを寄せ集めたものにすぎなくなっていたのではないかーー毎晩、毎晩、私が寝たふりをした瞬間の。(p.311

 

ところどころ自分の欲望によってロリータを傷つけていることによるハンバート自身の葛藤も描写されていた。制御できない自分の本能にふりまわされた男が最後に彼女の幸せを願ったところが良かった。

 

ロリータ (新潮文庫)

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年上の人 バスティアン・ヴィヴェス

バスティアン・ヴィヴェスはポリーナを読んではまって以来全部読んでいる(ラディアン以外)。ラディアンはお母さんがエロいことぐらいしか覚えていない。

 

バスティアン・ヴィヴェスの描く、いろんな関係性が重なり合った人間関係が好きだ。ポリーナでは、バレーの生徒であるポリーナと教師のポジンスキーは、ただ生徒と教師であるだけでなく、父と娘、男と女等のいろいろな関係を重なり合わせて描かれていた。同じように、年上の人でも、主人公のアントワーヌにとって父母の友人の娘であるエレーヌは、友人でもあり、姉のような存在でもあり、恋人としても描かれていた。というか帯にそうやって書いて売り出されている。

 

年上の人にはあからさまにエロいシーンが結構あって、そこがこれまでの作品とちょっと違った。ウエルベックとヴィヴェスを通してしかフランスをほぼ知らないのだが、フランスの女性はこんなにフェラチオをするのだろうか。

 

全体的に絵も物語も淡泊なのだが、最後にちょっと劇的なシーンももってきていて、そのあたりはさすがだ。普通に良作だった。

  

年上のひと (torch comics)

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ポリーナ (ShoPro Books)

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