弐瓶勉を読む ~天国から見たBLAME!~

弐瓶勉の「BLAME!」はマンガとしては珍しいハードSF的世界観で有名な作品であり、巨大な建造物等に代表される圧倒的なスケール感や、トーンで覆いつくされた真っ黒な画面や、想像の余地を残した意味深なストーリー等で話題になることが多い。今回は、今までBLAME!が語られてきたのとは違った切り口から、BLAME!の魅力を語ってみたい。

 

要点から入ると、BLAME!は、SFによって現在の私たちに橋渡しされた、人工的な神話として読むことができる。

 

神話に似たモチーフが登場すること

例えば、BLAME!の世界では、ネットスフィアという現実と同じかそれ以上にむちゃくちゃに発展したインターネットができており、人はそこにアクセスすることで豊かな生活を過ごしていた。人は遺伝子の中にネットスフィアにアクセスするためのアクセス権を埋め込んでいて(ネット端末遺伝子という)、ネットスフィアにアクセスできることはほとんど市民権と同義になっていた。しかし、ある時、ネット端末遺伝子が汚染されてしまい、人はネットにアクセスできなくなってしまう。ネットスフィアにアクセスできなくなったことにより、ネットを介して統御していた建築ロボットは制御を失い、惑星を飲み込んで銀河系を覆うぐらいに無秩序に建築をし続けるようになる。また人類も、ネット端末遺伝子を失ったことで、セーフガードというネットスフィアウイルスバスター機能のような存在からウイルス判定を受けて攻撃を受けるようになってしまい、世界は混乱に陥ってしまう。その結果、BLAME!の作品がスタートする時点では、人はネットスフィアの技術どころか存在そのものを忘れてしまっており、そもそもどれぐらい生き残っているかもわかっておらず、世界は巨大な建造物によって分断されてしまい、別の居住区に住んでいる人と出会うこと等ほぼありえない、というような状況になってしまっている。

 

この設定は、バベルの塔の神話を彷彿とさせる。バベルの塔の神話は、かつてはすべての人間が同じ言葉を話していたが、人間が天に届くほどの塔を建造しようとしたところ、それを見た神が「人間がひとつの言葉を話しているからこのようなことを始めてしまったのだ」と考え、言葉をばらばらにしてしまう。それによって、人間たちは互いに意思疎通ができなくなり、塔の建設をあきらめ各地に散っていった、というものである(p.43『よくわかるキリスト教』)。人間の能力が失われてしまう点や、それによって人間がばらばらになってしまう点が似通ってはいないだろうか。

 

バベルの塔の神話では、人間は天に届くように塔の建設を始めたが、BLAME!では構築していたのはネットスフィアである。そうすると、ネットスフィアは天国のアナロジーなのだろうか。

 

作中にはこのほかにも、ネットスフィアが天国のアナロジーとして描かれていると思われる場面が存在する。例えば、珪素生物という敵が、太古の人類の遺伝子を使って、ネットスフィアにアクセスしようとする場面がある(BLAME!8巻)。その場面では、原っぱのようなだだっ広い場所に、大きな川が流れており、ネットスフィアはその川を渡った先にあるように描かれている。

現世とは違う世界が川によって隔てられており、川を渡って違う世界に行くという設定は、三途の川を彷彿とさせる。ここでもやはり、ネットスフィアは彼岸・天国のアナロジーとして描かれているように思われる。

 

それでは、ネットスフィアを天国として仮定したとき、そのほかの登場人物やガジェットはどのように見えてくるだろうか。

 

ネットスフィアを管理しているAIである統治局は、天使に当たりそうだ。そうすると、人間を攻撃してくるようになったセーフガードは、堕天した天使である悪魔だろうか。実際、セーフガードと統治局の外見は非常によく似たものとして描かれている。また、ヒロインのシボの体に高位のセーフガードがダウンロードされる場面があるが、その際のシボの背中には機械の羽が生え、頭の上に輪が浮いており、完全に天使の姿をしている。これも、ネットスフィアが天国のアナロジーであるという説を裏付けるものだ。

 

主人公の霧亥はどうなるだろう。霧亥はネットスフィアの技術でしか作ることができない武器である重力子放射線射出装置を持っている。その武器は、絶対に破壊できないとされる世界を分断している超構造体を唯一破壊することができるとされている。ここからも、ネットスフィアは地上の理を超えた特別な場所であることが示されている。また、神聖な武器を主人公が手にする設定はアーサー王伝説等の物語を思い出させる。

さらに、霧亥は、失われたとされる汚染されていないネット端末遺伝子を探して、世界を延々と探索している。ネット端末遺伝子が見つかれば、人類が再びネットスフィアにアクセスできるようになり、現在の混乱状態を終息させることができるのである。

 

これらの設定を、ネットスフィアが天国のアナロジーであるとする仮説に沿って抽象化すると、BLAME!は「主人公が、天国からもたらされた武器をもち、天国にたどり着くための鍵を探す話」ということになる。いかにも神話的な作りであることがわかるだろう。

 

自然状態が作られていること

さて、ここまで読んだ方は、「神話とは抽象度の高い物語なのだから、現在の小説やマンガの筋書きが神話に似るのは当たり前だろう」と思われるかもしれない。その指摘はまったくそのとおりで、上記のような神話との類似は、BLAME!だけでなくそのほかの物語にもみられるものだろう。それでは、私はBLAME!の何が特別だと言おうとしているのか?

 

2つ目のポイントは、BLAME!では、自然状態が人工的に作り出されているという点である。そのことによって、中世の人にとっての天国のように、ネットスフィアがリアリティを持った神聖なもの、人工の天国として現れている。

 

そもそも現代に生きる私たちにとって、天国とは何だろうか。少なくとも、現代の日本に住む私たちにとっては、それは通常意識されることはない。私たちは、雷が自然現象であることを知っており、罪を罰するのは人間だけであることを知っており、突然身に降りかかった不幸は単なる偶然であることを知っており、死んだあとにはどこにも行けないことを知っている。私たちは近代科学を学んでおり、世の中で様々な物事が起こる仕組みをそれによって理解できるので、普段の生活において天国のことを考える機会はほとんどない。

 

だが、昔の人は違ったのだろう。近代科学が発達する前は、人は、身の回りで起こる摩訶不思議なことや、降って湧いた幸不幸などの説明できない事象を、天国等の神秘的なものを通じて理解していたのだろう。その時代には、神話は神の意志が記された書物であり、それを理解することで神に近づくことができ、神が造った世界の仕組みを理解することができる、とより強く意識されていたはずだ。

近代科学を知り、ものごとの別の説明の仕方を学んでしまった私たちには、昔の人が天国を思う際に抱いていた感情や、神話に向かい合うときの気持ちや、それを通じて背後にある崇高な何かを感じようとする祈りを知ることができない。

少なくとも、私たちが近代科学をもってしても説明できない事象に巻き込まれて、それ以外の方法に頼らざるを得ないような状況に陥るまでは。

 

だが、ここでBLAME!を見てみたい。

上で述べたとおり、BLAME!は作中に人の手によってネットスフィアという人工的な天国が作られている。また、地上はネット端末遺伝子が失われたことによって、技術が暴走し、説明不可能な事象がむちゃくちゃに生じるようになってしまっている。人間を襲うセーフガードが徘徊しているし、ロボットが意味不明な建築を続けているし、そこら中にいつ・どのような目的で作られたかわからないオーパーツが埋まっている。

技術の暴走によって、近代科学をもってしても理解できない状態が、すなわち、「人工的な自然」とでもいえるような状況が、作中に作り出されているのである。

 

近代科学で理解不能な人工的な自然の前で、世界を理解するためには、私たちは近代科学以外のものに頼らざるを得ない。このような構造によって、BLAME!の世界では、消えかけていた天国がネットスフィアとなって、再び存在感を増して目の前に現れてくるのである。

実際に、BLAME!世界の混乱はネットスフィアが原因であるため、混乱の仕組みを理解するためにはネットスフィアにたどり着かなければならない。このような視点でみると、主人公の霧亥がネットスフィアを目指す旅は、ますます切実なものとして、巡礼者のような様相を帯びて見えてくる。こうして、霧亥を追って作品を読む私たちもまた、荒れ狂う自然の中、太古の昔に忘れられた道を懸命にたどって、再び天国への巡礼を始めるのである。

 

SFによって現在と橋渡しされていること 

最後に、BLAME!のこの構造は、作品の中に閉じられたものではないことを述べたい。物語はあくまで物語であり、現実の自分には関係のないものだと思うかもしれない。BLAME!世界において、天国が存在感を増して現れているからといって、それは作品の中だけの話であり、毎日仕事を終えた後ファミマで買った総菜をチンして食べてVtuberを見て寝る日々を過ごしている私たちに関係があるわけではない。

 

それは確かにそのとおりだが、私たちは想像力でその垣根を超えることができる。BLAME!はマンガとしては珍しいハードSF作品であるが、そもそもSFとファンタジーの違いとは何だろうか。SFもファンタジーも定義が曖昧で、この問いに唯一の答えはないと思われるが、SF翻訳家・評論家として著名な大森望は、SFの定義を以下のように示している。

 

科学的論理を基盤にしている。また、たとえ異星や異世界や超未来が舞台であっても、どこかで「現実」とつながっている(ホラー、ファンタジーとの区別)。
現実の日常ではぜったいに起きないようなことが起きる(ミステリとの区別)。
読者の常識を壊すような独自の発想がある(センス・オブ・ワンダーもしくは認識的異化作用)。
既存の(疑似)科学的なガジェットまたはアイデア(宇宙人、宇宙船、ロボット、超能力、タイムトラベルなど)が作中に登場する(ジャンル的なお約束)。

この四つすべてを満たせば本格SFだが、とか、だけとかでもSFに分類してかまわない。SF読者の間では、(リアリズム小説ではないという程度の意味で)だけで「SF」と呼ぶ場合もある(例:「村上春樹の今度のはSF?」「まあ、一応ね」)。
https://ohmori.tumblr.com/post/164655520313/%EF%BD%93%EF%BD%86%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%BE%A9-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%EF%BD%93%EF%BD%861500%E5%86%8A-%E5%9B%9E%E5%A4%A9%E7%B7%A8-1996-2005%E5%B7%BB%E6%9C%AB%E3%81%8A%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A

 

この定義の①の要素に注目してほしい。

ファンタジーもSFも、現実の世界にはない設定が登場する点では同じだ。ファンタジーなら魔法、SFならタイムマシンやワープ技術等。このように、SFもファンタジーもまったくのつくり話なのだが、SFはファンタジーのように現実とは切り離された別の世界の話ではなく、現実と地続きの世界が舞台になっており、この世界で技術が発展すればもしかしたら本当に生じるかもしれないものとして描かれている場合が多い。

BLAME!の世界も、現実世界とは全く異なる法則が当たり前に存在するファンタジー世界というよりは、技術の暴走によって一変してしまってはいるものの、出発点は現実世界に設定されていると言えるだろう。私たちは、遠い未来にBLAME!と同じようなことが実際に生じない可能性を否定できない。そう考えたとき、私たちは、SFがつないだ想像力の細い抜け道を通って、BLAME!の世界を自分たちにも生じうるもの、現実のものとして感じることができる。そして、そこにある人工の天国を垣間見ることができる。

 

私たちは昔の人がどのように天国を信じていたのかを知ることはできない。神話はただの昔話であり、天国の扉は遠い昔に閉ざされてしまった。

だが、BLAME!はそこに橋を架ける。人工的に作り上げた天国をもって、かつて人が天国にたどり着こうとした狂おしい努力を、その崇高な気持ちを、そしてその背後にある神聖な存在を、自分のもののように感じさせてくれるのである。

  

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