弐瓶勉を読む ~シドニアの騎士とゾンビ化するヒロイン~

 

私は以前、弐瓶勉の作品に共通して登場するモチーフや展開について分析した。その中で、サブ主人公の位置にいたキャラクターがヒロインと性的に結ばれることで物語が終わるという結末が、初期の長編3作品(「BLAME!」、「ABARA」、「バイオメガ」)に共通して用いられていることを指摘し、それをセカイ系とネトラレのハイブリッドのようだと述べていた。

meganeza.hatenablog.com

 

そもそもネトラレとはなんだろうか。「寝取られ」とは、Wikipediaによると、「自分の好きな人が他の者と性的関係になる状況に性的興奮を覚える嗜好の人に向けたフィクションなどの創造物のジャンル名を指」し、「現在では、インターネットをはじめとし、アダルトゲームやアダルトビデオのジャンル名としてこの語が頻繁に使われるようになり、一般的な話題や報道・ニュースなどの表記の中にもこの言葉が用いられることが多くなっている。それらに伴い近年では知名度とともに国や性別を問わずその人気は高くなっており、特に同人作品ジャンルで圧倒的なシェアを見せている。」と記載されている(寝取られ - Wikipedia

 

実際、国内同人誌の界隈では、2010年前後からネトラレというジャンルが急速に存在感を増していったように思う。ネトラレは、最初は一部の好事家に愛好されているニッチなジャンルであったのが、ネトラレに拒絶反応を示す少なくない人達の反感を尻目にどんどんと普及していき、今やすっかり市民権を得た感がある。

 

ネトラレ的な結末が採用されている弐瓶勉の初期の3長編は、ネトラレが流行りだす10年ほど前の1997年から2000年代の初頭にかけて連載されていた。そのころ、映画の分野では「世界の中心で愛を叫ぶ」等の純愛ものが流行を見せており、アニメやマンガなどのサブカルチャー分野では、ネトラレではなく、男女の1対1の恋愛が世界の存続と天秤にかけられるセカイ系がブームの中心だった。

 

私たちは2000年ごろから2010年ごろにかけて、純愛からネトラレにゆっくりと移行していったとみることができる。

 

また、ネトラレが広まり始める2009年は、弐瓶勉の4つ目の長編である「シドニアの騎士」の連載が開始された年でもある。シドニアの騎士はマンガで2009年から2015年にかけて連載され、2014年と2015年にはアニメ化もされた。2017年にはコミックスの新装版も発売されており、2021年には劇場版「シドニアの騎士 あいつむぐほし」の公開が予定されている。シドニアの騎士弐瓶勉の最もヒットした代表作となった。

 

このシドニアの騎士が人気を獲得していった2009年から2020年にかけて、国内同人誌界隈の方はというと、ネトラレが普及した後、「催眠もの」にそのブームの中心が移っていったように思う。催眠ものとは、アプリや超能力によって他人を催眠にかけ、その肉体をほしいままにするという構成がとられている作品である。その純愛からかけ離れた設定を見ると、なんとも遠くまで流れ着いてしまったように感じる。純愛からネトラレへ、そして催眠へと行きついた私たちはこれからどこにいこうとしているのだろうか。

 

本文章では、セカイ系からネトラレへと移り変わっていく時期(2000年~2010年ごろ)に描かれた弐瓶勉の初期の3長編(BLAME!ABARAバイオメガ)と、ネトラレから催眠ものに移り変わっていく時期(2010年~2020年)に描かれた「シドニアの騎士」の作品の分析を通じて、これらの同人ジャンルの移り変わりの背後にあった社会や私たちの変化について検討したい。

 

前提

前提として、この文章では、日本において1970年代以降、消費社会の浸透やそれに伴う社会の流動性上昇の結果として、歴史や国家等何に価値があるのかを規定してくれるものが機能しなくなった、という考えをとる(「ポストモダン状況の進行」、や「大きな物語の消失」と呼ばれている)。何に価値があるのか規定してくれるものがなくなると、1つの社会の中でも、人によって正しいと感じるもの、価値があると感じるものが異なってくる。その結果生じるのは、「何かを選択すれば(社会にコミットすれば)必ず誰かを傷つける」(宇野 常寛. ゼロ年代の想像力 (p.20). 早川書房. Kindle 版.)という状態であり、セカイ系はそのような状態を背景に生まれたとされている。

 

純愛・セカイ系

セカイ系とは、哲学者・批評家である東浩紀らの定義によると「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」とされている(セカイ系 - Wikipedia)。

 

セカイ系では、目の前のヒロインが世界の存亡の鍵を握ることになる。1人の個人であるヒロインの肩に世界の存亡がかかるのはいかにも変な設定に思われるかもしれないが、前提を踏まえればしっくりくる。セカイ系が生じたのは、歴史や国家等何に価値があるのかを規定してくれるものがなくなった時代であり、私たちが何のために生まれてきたのか、何をすればよいのかの答えが非常に見つけづらくなった(世の中にただ一つの答えがなくなった)時代であった。そのような時代において、主人公の人生の意味を支えてくれるのは、自分を愛してくれるヒロインをのぞいてはいないのであり、ヒロインが失われてしまえば主人公の人生の意味も失われる(世界も無価値になる)からだ。同時期に映画で流行した純愛ものも、同様の背景から流行したのではないかと思われる。整理すると、セカイ系や純愛ものは、これまで何に価値があるかを規定していた国家や歴史等が弱まったことによって、その機能が「ヒロイン」という個人の肩にかかるようになった結果生まれたものだと言える。

 

だが、このセカイ系・純愛ものは最初から不可能性を抱えていた。それは、実際の世の中には自分を無条件に愛してくれるような「ヒロイン」等いないからだ。この事実に気付かせないようにするため、セカイ系や純愛ものでは、「ヒロイン」が主人公を頼らざるを得ないような設定があらかじめ組み込まれている場合が多かった。例えば、「世界の中心で愛を叫ぶ」のように、不治の病に侵されていたり、精神しょうがいのようなものを追っていて主人公に頼らざるを得ないようにすることによって、「そのような女性は現実にはいない」という部分に気付かせないよう周到に迂回する策がとられていた。だが、そのような迂回路をとってしても、純愛・セカイ系がハッピーエンドを迎えることは少なく、その多くはヒロインの死や喪失による挫折で終わることが多かった。セカイ系・純愛ものは、何に価値があるかを規定する機能を「ヒロイン」という設定にすべて背おわせることで、主人公の人生の意味を確保しようとしたものであったが、それは最初から失敗する運命を抱えていたと言える。

 

セカイ系・純愛系の時代に生まれた弐瓶勉の作品では、セカイ系の不可能性を予見していたかのような展開がとられている。冒頭に述べたように、弐瓶勉の初期の長編3作品では、「ヒロイン」との恋愛関係が世界の危機に直結しているというセカイ系の特徴を備えている。しかし、「ヒロイン」と結ばれるのは主人公ではなくサブ主人公なのである。弐瓶勉の初期の長編3作品では、「ヒロイン」と結ばれて人生の意味を獲得するのは主人公ではない別の誰かであり、主人公は「ヒロイン」による自身の生の意味づけに失敗し、誰も人生の意味を支えてくれなくなった無意味な世界に放り出されて、物語が終了する。

 

そして、この人生と世界の無意味さは、その後のネトラレ作品群によっても、繰り返し私たちの前に提示されることになる。

 

ネトラレ

ネトラレ作品では、まず幼なじみなどのあたかも運命の相手に思われる「ヒロイン」と主人公とのロマンチックな恋愛関係が描かれた後、そのヒロインが間男によって寝取られ、主人公よりも間男に気持ちを寄せるようになるまでの過程が描かれる場合が多い。また、間男に気持ちを寄せるようになる過程で、ヒロインの服装や言動が変わったり、主人公に対して「あなたより間男を愛している」といった言動を突き付ける場面が挿入されることもたびたびある。

 

重要なのは、「ヒロイン」が一度は登場するところだ。セカイ系・純愛もののように、この女性が一度は自分の人生を意味づけてくれるのではないか、という希望を抱かせた後に、その希望が無残な形で挫折する様を描いたのがネトラレ作品であるといえる。

 

ネトラレ作品では、何に価値があるのかを規定してくれるものがなくなったという時代背景が、よりむき出しの形で提示されている。セカイ系・純愛ものでは、価値を規定するものとして主人公を無条件に愛する「ヒロイン」という設定が登場したが、ネトラレ作品はそのような「ヒロイン」などこの世にいないのだということ、つまり価値を規定するものなどないのだという事実を目の前に突き付けるような構造がとられている。

 

なぜこのようなネトラレ作品が描かれ、私たちはそれを受け入れるようになってしまったのだろうか。理由は不明だが、私は、「ヒロイン」がこの世のどこにもいないことに気付いた私たちの自傷行為のようなものだったのではないかと考えている。ニーチェは、キリスト教によって基礎づけられてきた道徳の構造を暴いた際に、「神は死んだ」と言う言葉を使った。ネトラレ作品とは、「ヒロイン」が欺瞞であったことに気付いた私たちが、「ヒロイン」の不在を自身に納得させるために、心の中にある「ヒロイン」を殺すために行ったショック療法のようなものだったのではないか。

 

ネトラレ作品によって「ヒロイン」は死に、私たちは弐瓶勉の初期の長編3作品と同様、無意味な世界に投げ出され、目的のない人生を生きていることに気付いた。目的を失った私たちは、その後どこに行くことになるのだろうか。2010年から2020年にかけて、私たちは催眠ものに進んでいくことになる。

 

催眠

ネトラレが普及し、国内同人市場の1ジャンルに落ち着くようになるのと入れ替わるように、催眠ものは2010年代中頃から存在感を増していったように思う。催眠ものとは、上述のとおり、携帯アプリや超能力等によって他人を催眠にかけ、自分のほしいままにするというテンプレートがとられている作品である。

 

この催眠ものを、これまでと同じように、何に価値があるのかを規定してくれるものがなくなったという時代背景から分析と、どのように見えてくるだろうか。私たちは、ネトラレによって、セカイ系や純愛もので出てくるような、私たちの存在を全肯定してくれる「ヒロイン」はもはや存在しないことを知った。しかし、催眠ものでは、登場人物はアプリや超能力によって常識を改変され、主人公のことを全肯定する存在に変えられてしまうのである。「ヒロイン」がいないのであれば、私たちの手で作ってしまえばいい、という発想で生まれたのが「催眠もの」であるといえる。私たちは、ネトラレによって「ヒロイン」などどこにもおらず、私たちの人生に意味などないと気付いたあとであっても、他人を犠牲にすることで自分たちの人生の意味にグロテスクにこだわり続けてしまっている。

 

そして、ネトラレが普及し、催眠ものが登場してくる2010年から2020年にかけて連載・アニメ化されたシドニアの騎士では、このネトラレから催眠ものへの移り変わりが、作品上に現れているのである。

 

シドニアの騎士では、作品の序盤に「星白閑」という女性が登場する。星白は、主人公の谷風が他の訓練生にバカにされていた際にも優しく接し、谷風に心を寄せる「ヒロイン」として描かれる。しかし、星白は物語序盤でシドニアの騎士で登場する敵であるガウナによって殺されてしまう。ガウナは、捕食した人の情報を取り込んで、その人を模した複製をつくることがある。ガウナはこの星白を模したガウナを生み出し、それが主人公の敵として登場するのである。この展開は、上で述べたネトラレと全く同じ構造であることに気付くだろう。自分の人生を肯定してくれるはずだった「ヒロイン」が、自分の存在を否定しに来るのである。その後、谷風はこのガウナが模した星白と闘いを繰り広げ、最終的にその内の一体を捕獲し、ガウナを模した星白は母艦で研究対象として飼われることになる。

 

その後、物語中盤で、白羽衣つむぎという人類とガウナの融合個体が登場する。谷風は闘いや日常の中でつむぎと心を通わせていき、最終的にこのつむぎと結婚し子どもをつくる。この展開は、一見、ネトラレのその先を描いているように思われる。私たちは、私たちを無条件で愛してくれるような、運命の相手としての「ヒロイン」がいないことを知った後、そばにいるなんでもないふつうの異性と結婚して家族を作る。それが、何に価値があるのかを規定してくれるものがなくなった時代において、自分の人生を全肯定してくれる「ヒロイン」がいないことを知った私たちに対して、シドニアの騎士が伝えていることのように思える。だが、星白閑はほんとうに葬られたのだろうか。

 

実は、そうではない。つむぎは、物語終盤の戦いで甚大なダメージを負った際、命をつなぐために、研究対象として保管されていたガウナの星白の体に移植されることになる。その結果、つむぎは星白の外見をした存在として生き返るのである。

 

これは、催眠と同じだ。シドニアの騎士では、運命の相手が成立しないことを自覚したうえで、その死骸から魂を抜き取ってそこに別の人格を注ぎ込み、それをあたかも星白、「ヒロイン」かのように取り繕っているように思われる。「ヒロイン」は死んだにも関わらず、意思のないゾンビのようによみがえって、私たちの眼前に現れてくるのである。

 

これらの催眠ものや、シドニアの騎士のつむぎが星白の体に移植される展開は、私たちがネトラレを通じて気付いた人生の無意味さから逃避するものだ。見たくないものから目を背け、ありえない意味ある人生という幻を生き長らえさせるために、誰かを犠牲にするものだ。私は、催眠ものが私たちの進むべき道だとは思わない。

 

私たちは、ネトラレによって気付いた自分たちの人生の無意味さを受け止めたうえで、他人を道具にすることなく、それでもなお人生を生きる方法を考えなければならない。そしてその方法は、シドニアの騎士でも断片的に描かれていたように思われる。次回は、シドニアの騎士を含む弐瓶勉の作品において、人生の無意味さを受け止めて生きていくための方法として、催眠もの的な方法のほかにどのような可能性が提示されていたかを分析したい。

 

シドニアの騎士 コミック 1-15巻セット (アフタヌーンKC)

シドニアの騎士 コミック 1-15巻セット (アフタヌーンKC)

  • 作者:弐瓶 勉
  • 発売日: 2015/11/20
  • メディア: コミック