弐瓶勉を読む ~弐瓶勉から学ぶ人生論~

現代の日本に生きる私たちは、人生の意味や目的を見つけることが難しい状況に生きている。私たちは、たった一度きりのかけがえのないはずの一日一日を、だれの役に立っているのかもわからない仕事に費やしてくたくたになった後ベッドで気を失い、気が付けばもう次の日がやってきてしまう。私たちはどこかで人生を間違ったように感じており、自分が進んできた道を振り返ろうとするが、意味のない仕事や日常の雑事や知り合いからのLINEが立ち止まることを許さない。

 

現代における生きる意味を見つけることの難しさは、現代の社会状況の変化と合致していると思われる。消費社会の浸透やそれに伴う社会の流動性の上昇の結果として、国家や歴史などこれまで価値を規定してきたものがなくなり、人によって正しいと感じるもの、価値があると感じるものがバラバラになった。その結果、現代にはみなが考える「正解」がなくなり、どこを探してもどのように生きればよいのか答えが見つからない状態になってしまった。

 

このような社会状況の変化は、現代のフィクションや独身男性の迷える魂のるつぼである国内同人誌におけるジャンルの変遷にも表れているように思われることを前回の文章で述べた(弐瓶勉を読む ~シドニアの騎士とゾンビ化するヒロイン~ - 心を殺せ 情熱は殺すな)。すなわち、現代において社会における価値観を支えてくれていたもの(コミュニティや思想など)が効力を失っていく中で、最後のよりどころとして物語に登場したのがヒロインであり(純愛もの・セカイ系)、それすらも絶対ではないことを暴くものがネトラレ作品だと思われた。

 

ネトラレ作品では、主人公は唯一の生のよりどころであるヒロインを残虐な形で間男に寝取られることとなり、主人公の最後の生きる意味は奪われてしまう。その結果、主人公の価値観のよりどころはどこにも見当たらないことになり、人生の意味も目的も見つけられなくなってしまう。ネトラレ作品の主人公は人生の意味を奪われている点で私たちと同じではないか。私たちはネトラレ作品の主人公のように人生を生かされているのではないか。私たちは自分たちの人生の主人公になることを望んだが、決してネトラレ作品の主人公になりたかったわけではない。

 

生まれながらにしてネトラレ作品のような世の中に迷い込んでしまった私たちはどうすればよいのか。

 

ここで、弐瓶勉を見てみよう。以前の文章で述べたとおり、弐瓶勉の多くの長編においても、ネトラレ作品のような物語展開がとられていた。それは、主人公ではなく、サブ主人公とでもいうような位置にいたキャラクターがヒロインと性的に結ばれることで物語が終わる点だ(弐瓶勉を読む - 心を殺せ 情熱は殺すな)。

 

弐瓶勉の作品においても、主人公たちは過酷な生を生かされている。それでは弐瓶勉の作品が悲壮感にあふれているかというと、そういうわけではない。確かに弐瓶勉の作品世界はどれも暗い。しかし、主人公たちはそのような過酷な境遇にありながらも、決して折れることなく、彼らの目的のために懸命に人生に立ち向かっていく。そこには希望すら感じられる。一体どうすれば私たちは弐瓶勉の作品における主人公たちのように不屈の意思をもって、この糞山のような人生に立ち向かっていけるのだろうか。彼らを支えている秘密とは何なのだろうか。

 

この文章では、ネトラレ作品と同様の構造に置かれていた弐瓶勉の作品を分析し、主人公がどのように彼らの人生に向き合っていたかを検討することで、私たちが人生の生き方を考える助けにしようと思う。弐瓶勉の作品の主人公たちは、ネトラレ作品のような過酷な物語の中で、どのようにしてその人生を続けていくことができたのだろうか。

 

結論から述べると、私は、弐瓶勉の作品から、(1)夢、(2)コミュニティ、(3)パートナー、の3つの要素をバランスさせることが、現代社会を生きていくうえで大事なのではないかと考えた。

 

(1)夢

1つめの鍵となるのは、夢である。夢とは、自分の人生に自ら設定する目的のことだ。


弐瓶勉の作品の主人公は、その全員が非常に明確な目的を持っている。BLAME!の主人公である霧亥は「ネット端末遺伝子を探すこと」、アバラの主人公である電次は「白奇居子を倒すこと」、バイオメガの主人公である造一は「イオン・グリーンを奪還すること」、シドニアの騎士の谷風は「ガウナからシドニアを守ること」である。特に初期の三作品に顕著であるが、主人公は目的達成を第一に考える人間味の薄いキャラクターとして描かれる場合が多い。基本的にこれらの主人公たちは、自身の目的に疑いを持つことはなく、ヒロインや仲間が死んでもその屍を超えて自分の目的達成のために進んでいく。夢を「人生の目的」ととらえれば、これらの弐瓶勉作品における主人公たちは非常に強固な夢を持っていると言い換えることができるだろう。


現代に生きる私たちにとっても、夢は特別な地位を持っている。私たちは子供のころから自分の夢を考える機会が数多く与えられ、就活においても自身の「やりたいこと(=夢)」を仕事にするようにと言われる。「何者かになる」という目標は、無目的な人生にゴールを設定することで、空費されていく毎日をゴールにつながる一本道のように錯覚させ、有意義に感じさせてくれるものだ。


この夢は、外部の力に比較的頼らず人生を支えることができる点で、他の価値観を支えるものよりも優れているように思われる。例えば、共産主義等過去に価値観を支える役割を果たした思想は、同じ考えを共有する人々が一定程度存在しなければ価値観として機能しづらいが、夢は一人でも持つことが可能だ。どれだけ周囲から狂っていると思われても、自分さえ信じることができれば、夢はその人の人生を意味あるものにし続けることができる。このような特徴があるからこそ、これまで価値観を支えてきた思想などの力が弱まってきた現代において、夢を持つことが相対的に強調されるようになってきたのかもしれない。


しかしながら、現代においては、この夢を持つことすらも困難になっているように思われる。私たちはインターネットにつなげられ、世界規模の競争に否応なく巻き込まれてしまう。私が子どものころは、小学校で一番スマブラがうまいとまるで自分が世界一うまいかのような全能感を味わうことができたが、今では自分よりもうまい人たちがネットを通じて容易に見つかり、自分が凡人であることをあらかじめ思い知らざるをえない。そのような状況にあっては夢を抱くこと自体が困難である。また、幸運にも夢をもつことができたとしても、その夢を胸に抱き続けることもまた難しくなりつつあるように思う。現代に生きる私たちは、それぞれが全く異なった価値観を持っている。それらの人の中には、当然、私たちとは真逆の価値観をもつ人もいるだろう(スマブラがうまくて何になるんだ?!)。私たちは、そのような異なる価値観からの攻撃に耐えながら、実現できるかどうかわからない夢に向かって進み続けなければならない。このように、価値観が多様化したことによって、自身の夢に反対する価値観が避けられないことも、夢を抱き続けることを難しくしている一つの要素であるように思われる。


さて、弐瓶勉の作品において、この夢を追うことの困難さはどのように描かれているのだろうか。実は、弐瓶勉の作品においては、夢を追うことの困難さの側面はほとんど扱われていない。というのも、弐瓶勉の作品では、夢の追求の困難さをあらかじめ回避するような設定が作中に盛り込まれているのである。
弐瓶勉の長編作品の主人公は、全員が「人造人間」である。BLAME!の主人公である霧亥はセーフガード、アバラの主人公である電次は黒奇居子に改造されており、バイオメガの主人公である造一は東亜重工製の合成人間、シドニアの騎士の谷風は伝説的なパイロットであった斎藤ヒロキのクローンだ。


私たちのような普通の人間は、無意味な生を受け、その生を意味あるものにするために夢を探すことになる。一方で、人造人間とはそもそも何か必要があって生み出されるものだ。彼らにとっては、生まれることは無意味なものではありえない。彼らにとっては、夢=目的を追求することこそが生み出された意味なのであり、どれだけその夢の実現が困難であろうともそれを捨てることはない。このように、「人造人間」という設定によって、弐瓶勉の主人公には「夢をあきらめる」というオプション自体が存在しないため、作中では夢を追うことの困難さという側面は描かれないまま放置されてしまっているのである。


ここまで見てきたように、夢は私たちの人生に意味を持たせてくれるものであるように思われ、弐瓶勉の作品の中でも重要なものとして描かれている。しかしながら、現代における夢を持つことの難しさは弐瓶勉の作品においては取り上げられておらず、現実にそれをどう克服していけばよいのかは弐瓶勉の作品からだけではつかむことができない。

 

(2)コミュニティ

2つ目はコミュニティである。


弐瓶勉の長編は、最近のものになるにつれ、コミュニティが描写されるようになっていく。第一作目の長編であるBLAME!や二作目のアバラでは、コミュニティの描写はほとんどない。主人公の味方はごく少人数に限られ、その味方でさえも死んだり離別することになる。ところが、三作目のバイオメガから味方の数が増え始め、仲間同士のコミュニケーションの場面や共闘する場面が描かれるようになっていく。そして四作目のシドニアの騎士では、シドニア船内の住民とのコミュニケーションの描写に作品の半分ほどが割かれるようになる。


コミュニティもまた、私たちの人生や価値観を支えてくれるものである。私たちはコミュニケーションを通じて他者から必要とされている感覚を得ることができる。また、通常私たちは自分たちと価値観が近しい人たちとコミュニティを形成することになると思われるので、同一の価値観を持つことが難しい現代においても、コミュニティ内であれば同じ価値観を共有することができ、コミュニティの内部においては限定的に人生の意味を形成していくことができる。例えば、マイケル・サンデルの「これからの「正義」の話をしよう」などに代表されるコミュニタリアリズムの思想は、価値観の基盤としてコミュニティを重視している。


現代におけるもっとも身近なコミュニティとしては家族や職業から生じる人間関係があると思われるが、「独居は,性・年齢に関わらず孤独感による自殺死亡の危険因子」*1であることや、「男女ともに離別および無職は一貫して自殺のリスクを高めうる」*2ことを示す統計情報があり、このようなデータからも、コミュニティが私たちの生きる目的を支えるものとして機能していることがうかがえる。


それでは、私たちはこのコミュニティだけを頼りに現代を生きていくことができるだろうか。私には、それもまた困難であるように思われる。現代社会は流動性を高め、これまで日本社会にあった村や家などのコミュニティを崩壊させてしまった。それだけでなく、戦後社会に年功序列によって新たなコミュニティを提供した日本企業も、昨今の競争の激化により雇用形態の変更を余儀なくされており、そのコミュニティを提供する役割はどんどん小さくなっていくことが予想される。他には、同じ趣味を共有する共同体なども考えられるが、これらは簡単に入ることも抜けることもできるため、流動性が高すぎて、これまでの共同体が担っていたような役割を果たすのは難しそうだ。最後に残ったのは核家族ぐらいだが、子供も成人すれば家を出ることが普通になった今、人生のすべての期間を家族と暮らしていくのは難しいだろう。


弐瓶勉の作品では、この現代におけるコミュニティ形成の困難さはどのように扱われているのだろうか。実は、弐瓶勉の作品では、このコミュニティ形成の困難さの側面についても設定上の工夫によって回避されている。


最もコミュニティの描写にページが割かれている「シドニアの騎士」の作品の舞台は、宇宙を航行する「シドニア」という船である。作中にはシドニア以外の船や人が生きている惑星などは登場しないため、シドニアからの人口の流出や流入は想定されず、シドニアは完全な閉じられたコミュニティとなっている。そのため、シドニアでは、現代における困難さに直面することなくコミュニティが維持されてしまうのである。


このように、コミュニティもまた私たちの人生に意味を持たせてくれるものであるように思われ、弐瓶勉の作品でも最近の作品になるにつれその重要さを増していっている。しかしながら、またしても、現代におけるコミュニティを形成することの難しさは弐瓶勉の作品においては取り上げられておらず、現実にそれをどう克服していけばよいのかは弐瓶勉の作品からだけではつかむことができない。

 

(3)パートナー

 

夢もコミュニティも困難さに対する解決策が見当たらないとすれば、それでは他に何があるだろうか。3つ目は、パートナーである。


パートナーの存在は、これまで弐瓶勉の作品の読解を通じてみてきたように、ネトラレ的な物語によって、その実現の困難さが繰り返し描かれてきたものであった。しかしながら、恋愛映画におけるヒロインのようなパートナーは現実にはいないとしても、やはりパートナーの存在は私たちの人生を意味あるものにするために重要な役割を持っているように思う。


弐瓶勉の作品では、ヒロイン=パートナーは、サブ主人公と性的に結ばれるネトラレ的な物語によって、その不可能性が表現されているのであるが、その一方でパートナーを持つことによる希望も執拗に描かれているように思われる。例えば、弐瓶勉の作品には「異質の敵との異種交配によって生まれた子どもが戦いを終わらせる」という展開が繰り返し登場する。

 

この展開が最も明確にあらわれているのは、弐瓶勉の短編集「ブラム学園! アンドソーオン」に収録されている「ZEB-NOID」という短編だ。この作品では、進化して宇宙空間に適応した蝿と人類が終わりのない戦いを繰り広げていたが、突然変異によって生まれた人型の蝿と人類が異種交配によって子孫を残せるようになったことによって戦いが終わる。同様の展開は、シドニアの騎士においても見出すことができる。シドニアの騎士では、蝿ではなくガウナという敵との間で戦いが行われているが、ガウナと人間のハーフである白羽衣つむぎが作中で重要な役割を持つことになる。また、BLAME!では、セーフガードのサナカンと人間のシボが子どもを作り、その子どもがBLAME!世界を救う鍵を握っていることを示唆して作品が終わる。バイオメガにおいては、異種交配と子どものモチーフは切り離されて登場するが、そのどちらもが物語の結末に深くかかわっている。バイオメガでは、外見上クマであるコズロフと人間であるイオン・グリーンとが結ばれることによってゾンビ禍が終了するが、ここに異種交配のモチーフが登場している。また、物語中盤から、復物主の子どもであるフニペーロというキャラクターが登場し、主人公と行動を共にすることになるが、このフニペーロも物語の展開に重要な役割を占めており、上で見てきたような子どものモチーフに該当すると思われる。アバラにおいても、異種交配と子どものモチーフは切り離されて登場していると思われる。異種交配の明確なモチーフは登場しないが、黒奇居子という設定自体が白奇居子と人間のハーフのような存在であり、黒奇居子という設定に異種交配が組み込まれていると見ることができる。また、アバラでは、先島とタドホミが別世界に脱出してアダムとイブになることを示唆して物語が終わるが、まだ生まれてはいないものの、ここに子どものモチーフを読みこむことができるだろう。


このように、弐瓶勉の作品では「異種交配」「子ども」というモチーフが繰り返し登場し、それらが物語の結末に重要な役割を果たしている。異種交配とは、異質な他者との性的なつながりを表すモチーフのように思われる。価値観が多様化した現代に生きる私たちにとって、他者とは価値観を全く異にする異星人のようなものだ。異種交配とは、現代における私たちが他者との間で性的に密接な関係を取り結ぶことがあらわされているのではないか。そして「子ども」のモチーフとは希望を表しているように思われる。子どもとは人間の一生の中で最も可能性に満ち溢れた状態であるからだ。私たちは子どもの中に無限の可能性を読み込むことができる。このように考えると、「異質の敵との異種交配によって生まれた子どもによって戦いが終わる」という展開は、現代に生きる私たちがそれでもなお他者と関係を持つことによる希望を表しているように思われる。


一方で、これまでの文章で見てきたとおり、弐瓶勉は、ネトラレ的な物語展開によって、現代において運命の人を見つけることの困難さも描いてきた。現代には運命の人など存在しない。私たちの目の前に現れるのは、赤い糸で結ばれた相手ではなく、マッチングアプリで順位付けされ比較検討された上で自ら選択した代替可能な相手である。仮に運命的な出会いを果たしたとしても、その相手にはこの先長い人生において離婚の危機や無数の不倫の機会がある。そのような現代において、私たちはどのようにパートナーと向き合うべきか。


一つの解決策は、相手が運命の人ではないことを承知の上で、相手を自分のことを全承認するように作り替えてしまうことだ。それが催眠もので用いられている想像力であり、かつシドニアの騎士においてもみられることを前回の文章で述べた(弐瓶勉を読む ~シドニアの騎士とゾンビ化するヒロイン~ - 心を殺せ 情熱は殺すな)。しかし、このような方法は目の前にいる他者を塗りつぶして別の意思を持たない(または自分にとって都合のいい意思を持つ)存在に変えてしまう暴力的な行為であり、このような方法の先に明るい人生が待っているとは思えない。

 

それでは私たちはどのように異星人のような他者と向き合うべきか。
それは、相手が代替可能な、何でもない存在であることを承知の上で、赤い糸で結ばれた運命の人のように扱うことだ。しかし、相手は運命の人ではない。相手はネトラレたり不倫したり、そもそも私たちが思っていたような素晴らしい相手ではないかもしれない。もし相手が不倫した場合に、私たちはどうふるまえばよいのか。私は、そのときにこそ、これまで見てきた夢やコミュニティを頼るべきだと考える。

 

(4)夢・コミュニティ・パートナーをバランスさせること

ここまで、生きる意味を見出しづらい現代において生きる意味を見出すための方法として、弐瓶勉の作品には、夢、コミュニティ、パートナーの3つのアイデアが登場することと、そのどれもが現代においては通用しづらいことを見てきた。私は、この状況を解決する革新的なアイデアを持っているわけではない。平凡な私に思いついたのは、「1つ1つが通用しづらいのであれば、それらを3つとも用いればいいのではないか」というものである。


パートナーは不倫するかもしれない。パートナーが不倫したとき、もしそのパートナーが自分にとって唯一の生きる意味であった場合、その状況は危機的だ。しかし、自分に夢やそのほかに頼れるコミュニティがあれば、その困難を乗り越えられる可能性は高くなるだろう。


同じように、幼いころから1つの夢だけを追いかけてきた人が、取り返しのつかない年齢になってその夢が達成困難だと気づいたとき、周りに支えてくれるパートナーやコミュニティがあるかどうかで、その人が新たな人生を歩むことができるかが大きく変わるように思われる。


就職してから仕事一筋で会社に人生をささげてきたサラリーマンが首になったとき、その人に家庭があるか・会社に縛られない夢があるかは、その人が立ち直ることができるかどうかに深くかかわっているように思う。


このように、現代においては夢もコミュニティもパートナーも一つ一つは不安定ではあるが、その3つをバランスよく自分の中で位置づけることによって、そのうちのどれかが崩れたとしても人生の意味を失ってしまうことなく、生き続けることができるのではないだろうか。

 

 

弐瓶勉を読む ~シドニアの騎士とゾンビ化するヒロイン~

 

私は以前、弐瓶勉の作品に共通して登場するモチーフや展開について分析した。その中で、サブ主人公の位置にいたキャラクターがヒロインと性的に結ばれることで物語が終わるという結末が、初期の長編3作品(「BLAME!」、「ABARA」、「バイオメガ」)に共通して用いられていることを指摘し、それをセカイ系とネトラレのハイブリッドのようだと述べていた。

meganeza.hatenablog.com

 

そもそもネトラレとはなんだろうか。「寝取られ」とは、Wikipediaによると、「自分の好きな人が他の者と性的関係になる状況に性的興奮を覚える嗜好の人に向けたフィクションなどの創造物のジャンル名を指」し、「現在では、インターネットをはじめとし、アダルトゲームやアダルトビデオのジャンル名としてこの語が頻繁に使われるようになり、一般的な話題や報道・ニュースなどの表記の中にもこの言葉が用いられることが多くなっている。それらに伴い近年では知名度とともに国や性別を問わずその人気は高くなっており、特に同人作品ジャンルで圧倒的なシェアを見せている。」と記載されている(寝取られ - Wikipedia

 

実際、国内同人誌の界隈では、2010年前後からネトラレというジャンルが急速に存在感を増していったように思う。ネトラレは、最初は一部の好事家に愛好されているニッチなジャンルであったのが、ネトラレに拒絶反応を示す少なくない人達の反感を尻目にどんどんと普及していき、今やすっかり市民権を得た感がある。

 

ネトラレ的な結末が採用されている弐瓶勉の初期の3長編は、ネトラレが流行りだす10年ほど前の1997年から2000年代の初頭にかけて連載されていた。そのころ、映画の分野では「世界の中心で愛を叫ぶ」等の純愛ものが流行を見せており、アニメやマンガなどのサブカルチャー分野では、ネトラレではなく、男女の1対1の恋愛が世界の存続と天秤にかけられるセカイ系がブームの中心だった。

 

私たちは2000年ごろから2010年ごろにかけて、純愛からネトラレにゆっくりと移行していったとみることができる。

 

また、ネトラレが広まり始める2009年は、弐瓶勉の4つ目の長編である「シドニアの騎士」の連載が開始された年でもある。シドニアの騎士はマンガで2009年から2015年にかけて連載され、2014年と2015年にはアニメ化もされた。2017年にはコミックスの新装版も発売されており、2021年には劇場版「シドニアの騎士 あいつむぐほし」の公開が予定されている。シドニアの騎士弐瓶勉の最もヒットした代表作となった。

 

このシドニアの騎士が人気を獲得していった2009年から2020年にかけて、国内同人誌界隈の方はというと、ネトラレが普及した後、「催眠もの」にそのブームの中心が移っていったように思う。催眠ものとは、アプリや超能力によって他人を催眠にかけ、その肉体をほしいままにするという構成がとられている作品である。その純愛からかけ離れた設定を見ると、なんとも遠くまで流れ着いてしまったように感じる。純愛からネトラレへ、そして催眠へと行きついた私たちはこれからどこにいこうとしているのだろうか。

 

本文章では、セカイ系からネトラレへと移り変わっていく時期(2000年~2010年ごろ)に描かれた弐瓶勉の初期の3長編(BLAME!ABARAバイオメガ)と、ネトラレから催眠ものに移り変わっていく時期(2010年~2020年)に描かれた「シドニアの騎士」の作品の分析を通じて、これらの同人ジャンルの移り変わりの背後にあった社会や私たちの変化について検討したい。

 

前提

前提として、この文章では、日本において1970年代以降、消費社会の浸透やそれに伴う社会の流動性上昇の結果として、歴史や国家等何に価値があるのかを規定してくれるものが機能しなくなった、という考えをとる(「ポストモダン状況の進行」、や「大きな物語の消失」と呼ばれている)。何に価値があるのか規定してくれるものがなくなると、1つの社会の中でも、人によって正しいと感じるもの、価値があると感じるものが異なってくる。その結果生じるのは、「何かを選択すれば(社会にコミットすれば)必ず誰かを傷つける」(宇野 常寛. ゼロ年代の想像力 (p.20). 早川書房. Kindle 版.)という状態であり、セカイ系はそのような状態を背景に生まれたとされている。

 

純愛・セカイ系

セカイ系とは、哲学者・批評家である東浩紀らの定義によると「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」とされている(セカイ系 - Wikipedia)。

 

セカイ系では、目の前のヒロインが世界の存亡の鍵を握ることになる。1人の個人であるヒロインの肩に世界の存亡がかかるのはいかにも変な設定に思われるかもしれないが、前提を踏まえればしっくりくる。セカイ系が生じたのは、歴史や国家等何に価値があるのかを規定してくれるものがなくなった時代であり、私たちが何のために生まれてきたのか、何をすればよいのかの答えが非常に見つけづらくなった(世の中にただ一つの答えがなくなった)時代であった。そのような時代において、主人公の人生の意味を支えてくれるのは、自分を愛してくれるヒロインをのぞいてはいないのであり、ヒロインが失われてしまえば主人公の人生の意味も失われる(世界も無価値になる)からだ。同時期に映画で流行した純愛ものも、同様の背景から流行したのではないかと思われる。整理すると、セカイ系や純愛ものは、これまで何に価値があるかを規定していた国家や歴史等が弱まったことによって、その機能が「ヒロイン」という個人の肩にかかるようになった結果生まれたものだと言える。

 

だが、このセカイ系・純愛ものは最初から不可能性を抱えていた。それは、実際の世の中には自分を無条件に愛してくれるような「ヒロイン」等いないからだ。この事実に気付かせないようにするため、セカイ系や純愛ものでは、「ヒロイン」が主人公を頼らざるを得ないような設定があらかじめ組み込まれている場合が多かった。例えば、「世界の中心で愛を叫ぶ」のように、不治の病に侵されていたり、精神しょうがいのようなものを追っていて主人公に頼らざるを得ないようにすることによって、「そのような女性は現実にはいない」という部分に気付かせないよう周到に迂回する策がとられていた。だが、そのような迂回路をとってしても、純愛・セカイ系がハッピーエンドを迎えることは少なく、その多くはヒロインの死や喪失による挫折で終わることが多かった。セカイ系・純愛ものは、何に価値があるかを規定する機能を「ヒロイン」という設定にすべて背おわせることで、主人公の人生の意味を確保しようとしたものであったが、それは最初から失敗する運命を抱えていたと言える。

 

セカイ系・純愛系の時代に生まれた弐瓶勉の作品では、セカイ系の不可能性を予見していたかのような展開がとられている。冒頭に述べたように、弐瓶勉の初期の長編3作品では、「ヒロイン」との恋愛関係が世界の危機に直結しているというセカイ系の特徴を備えている。しかし、「ヒロイン」と結ばれるのは主人公ではなくサブ主人公なのである。弐瓶勉の初期の長編3作品では、「ヒロイン」と結ばれて人生の意味を獲得するのは主人公ではない別の誰かであり、主人公は「ヒロイン」による自身の生の意味づけに失敗し、誰も人生の意味を支えてくれなくなった無意味な世界に放り出されて、物語が終了する。

 

そして、この人生と世界の無意味さは、その後のネトラレ作品群によっても、繰り返し私たちの前に提示されることになる。

 

ネトラレ

ネトラレ作品では、まず幼なじみなどのあたかも運命の相手に思われる「ヒロイン」と主人公とのロマンチックな恋愛関係が描かれた後、そのヒロインが間男によって寝取られ、主人公よりも間男に気持ちを寄せるようになるまでの過程が描かれる場合が多い。また、間男に気持ちを寄せるようになる過程で、ヒロインの服装や言動が変わったり、主人公に対して「あなたより間男を愛している」といった言動を突き付ける場面が挿入されることもたびたびある。

 

重要なのは、「ヒロイン」が一度は登場するところだ。セカイ系・純愛もののように、この女性が一度は自分の人生を意味づけてくれるのではないか、という希望を抱かせた後に、その希望が無残な形で挫折する様を描いたのがネトラレ作品であるといえる。

 

ネトラレ作品では、何に価値があるのかを規定してくれるものがなくなったという時代背景が、よりむき出しの形で提示されている。セカイ系・純愛ものでは、価値を規定するものとして主人公を無条件に愛する「ヒロイン」という設定が登場したが、ネトラレ作品はそのような「ヒロイン」などこの世にいないのだということ、つまり価値を規定するものなどないのだという事実を目の前に突き付けるような構造がとられている。

 

なぜこのようなネトラレ作品が描かれ、私たちはそれを受け入れるようになってしまったのだろうか。理由は不明だが、私は、「ヒロイン」がこの世のどこにもいないことに気付いた私たちの自傷行為のようなものだったのではないかと考えている。ニーチェは、キリスト教によって基礎づけられてきた道徳の構造を暴いた際に、「神は死んだ」と言う言葉を使った。ネトラレ作品とは、「ヒロイン」が欺瞞であったことに気付いた私たちが、「ヒロイン」の不在を自身に納得させるために、心の中にある「ヒロイン」を殺すために行ったショック療法のようなものだったのではないか。

 

ネトラレ作品によって「ヒロイン」は死に、私たちは弐瓶勉の初期の長編3作品と同様、無意味な世界に投げ出され、目的のない人生を生きていることに気付いた。目的を失った私たちは、その後どこに行くことになるのだろうか。2010年から2020年にかけて、私たちは催眠ものに進んでいくことになる。

 

催眠

ネトラレが普及し、国内同人市場の1ジャンルに落ち着くようになるのと入れ替わるように、催眠ものは2010年代中頃から存在感を増していったように思う。催眠ものとは、上述のとおり、携帯アプリや超能力等によって他人を催眠にかけ、自分のほしいままにするというテンプレートがとられている作品である。

 

この催眠ものを、これまでと同じように、何に価値があるのかを規定してくれるものがなくなったという時代背景から分析と、どのように見えてくるだろうか。私たちは、ネトラレによって、セカイ系や純愛もので出てくるような、私たちの存在を全肯定してくれる「ヒロイン」はもはや存在しないことを知った。しかし、催眠ものでは、登場人物はアプリや超能力によって常識を改変され、主人公のことを全肯定する存在に変えられてしまうのである。「ヒロイン」がいないのであれば、私たちの手で作ってしまえばいい、という発想で生まれたのが「催眠もの」であるといえる。私たちは、ネトラレによって「ヒロイン」などどこにもおらず、私たちの人生に意味などないと気付いたあとであっても、他人を犠牲にすることで自分たちの人生の意味にグロテスクにこだわり続けてしまっている。

 

そして、ネトラレが普及し、催眠ものが登場してくる2010年から2020年にかけて連載・アニメ化されたシドニアの騎士では、このネトラレから催眠ものへの移り変わりが、作品上に現れているのである。

 

シドニアの騎士では、作品の序盤に「星白閑」という女性が登場する。星白は、主人公の谷風が他の訓練生にバカにされていた際にも優しく接し、谷風に心を寄せる「ヒロイン」として描かれる。しかし、星白は物語序盤でシドニアの騎士で登場する敵であるガウナによって殺されてしまう。ガウナは、捕食した人の情報を取り込んで、その人を模した複製をつくることがある。ガウナはこの星白を模したガウナを生み出し、それが主人公の敵として登場するのである。この展開は、上で述べたネトラレと全く同じ構造であることに気付くだろう。自分の人生を肯定してくれるはずだった「ヒロイン」が、自分の存在を否定しに来るのである。その後、谷風はこのガウナが模した星白と闘いを繰り広げ、最終的にその内の一体を捕獲し、ガウナを模した星白は母艦で研究対象として飼われることになる。

 

その後、物語中盤で、白羽衣つむぎという人類とガウナの融合個体が登場する。谷風は闘いや日常の中でつむぎと心を通わせていき、最終的にこのつむぎと結婚し子どもをつくる。この展開は、一見、ネトラレのその先を描いているように思われる。私たちは、私たちを無条件で愛してくれるような、運命の相手としての「ヒロイン」がいないことを知った後、そばにいるなんでもないふつうの異性と結婚して家族を作る。それが、何に価値があるのかを規定してくれるものがなくなった時代において、自分の人生を全肯定してくれる「ヒロイン」がいないことを知った私たちに対して、シドニアの騎士が伝えていることのように思える。だが、星白閑はほんとうに葬られたのだろうか。

 

実は、そうではない。つむぎは、物語終盤の戦いで甚大なダメージを負った際、命をつなぐために、研究対象として保管されていたガウナの星白の体に移植されることになる。その結果、つむぎは星白の外見をした存在として生き返るのである。

 

これは、催眠と同じだ。シドニアの騎士では、運命の相手が成立しないことを自覚したうえで、その死骸から魂を抜き取ってそこに別の人格を注ぎ込み、それをあたかも星白、「ヒロイン」かのように取り繕っているように思われる。「ヒロイン」は死んだにも関わらず、意思のないゾンビのようによみがえって、私たちの眼前に現れてくるのである。

 

これらの催眠ものや、シドニアの騎士のつむぎが星白の体に移植される展開は、私たちがネトラレを通じて気付いた人生の無意味さから逃避するものだ。見たくないものから目を背け、ありえない意味ある人生という幻を生き長らえさせるために、誰かを犠牲にするものだ。私は、催眠ものが私たちの進むべき道だとは思わない。

 

私たちは、ネトラレによって気付いた自分たちの人生の無意味さを受け止めたうえで、他人を道具にすることなく、それでもなお人生を生きる方法を考えなければならない。そしてその方法は、シドニアの騎士でも断片的に描かれていたように思われる。次回は、シドニアの騎士を含む弐瓶勉の作品において、人生の無意味さを受け止めて生きていくための方法として、催眠もの的な方法のほかにどのような可能性が提示されていたかを分析したい。

 

シドニアの騎士 コミック 1-15巻セット (アフタヌーンKC)

シドニアの騎士 コミック 1-15巻セット (アフタヌーンKC)

  • 作者:弐瓶 勉
  • 発売日: 2015/11/20
  • メディア: コミック
 

 

弐瓶勉を読む ~アバラのよみかた~

 

「アバラ」は、弐瓶勉の2作目の長編で、全2巻からなるSFバトルマンガであり、チェンソーマンの作者である藤本タツキが「チェンソーマンは「ポップなアバラ」を目指して描いている」と述べたことで興味を持った方も多いかと思う。 

「チェンソーマン」300万部突破、藤本タツキからのコメント&イラストも(コメントあり) - コミックナタリー

 

だが、初めてアバラを読んだ方は、その読みにくさに戸惑いを覚えるのではないか。実際、私もそうだった。場面が飛びまくって話の流れがどうなっているのかわからないし、同じようなデザインの化け物が理由も明かされないまま戦っていてどっちがどっちかもわからず、最後は見開きの抽象画で説明もなしに終わってしまう。多くの方は、「なんだかよくわからないマンガだな」と思って、本棚に戻してそれっきりだろう。

 

しかし、それはあまりにも惜しい。アバラはその読みにくさの後ろに、奥深いストーリーや、挑戦的なマンガ表現や、芸術的なカットや、そして何よりむちゃくちゃかっこいいデザインが詰め込まれた、色々な楽しみ方ができるマンガだからだ。

 

そこで今回は、少しでも多くの人にアバラを楽しんでもらえるようにアバラが読みにくく感じる理由を解説し、どうすればアバラが読めるようになるのか個人的な考えを説明したい。

 

 なぜアバラは読みにくいのか?

 

細かな話に入る前に、まずアバラの読みにくさの根っこに共通する理由について述べたい。一言でいうと、アバラがとっつきにくいのは「リアルさ」を追求した結果だと考えられる。アバラでは、ストーリや絵柄でふつうのマンガでは採用されないような方法がとられており、それが読みにくさの要因になっている。ではなぜそのような方法があえてとられているかというと、それは「リアルさ」を追求するためだと思われる。

 

例えば、ストーリーを取り上げて説明したい。よくある少年マンガでは、物語の序盤で登場人物や背景設定の説明を行って、読者が物語にスムーズに入っていけるような仕組みが設けられていることが一般的だ。具体的には、先生・先輩的な立ち位置の登場人物が門外漢・初心者的な登場人物に対して、「やれやれそんなこともしらないのか」とあきれながら説明をする場面などが1話で描かれることが多いように思う。あるいは、モノローグで直接的に説明がなされる場合もあるだろう。

 

一方で、アバラではこういった導入がほとんどない。登場人物が専門用語だらけのわけのわからない話をしたかと思ったらもうすぐに化け物バトルが始まってしまう。なぜこのような不親切な方法がとられているのだろうか。それはアバラが写実的な、リアルな作品を志向しているからだと思われる。先生やモノローグによる説明は現実にはなされないものだ。世界は私たちを中心には回っているわけではなく、そこで生じる事象の意味や私たちがなすべきことについて、誰かがいちいち答えを教えてくれるわけではない。アバラでは、現実が私たちに対するのと同様に、このような読者への解説がほとんど排されている。

 

アバラの写実性・リアルさへの志向は絵柄にも表れている。アバラは、弐瓶勉の他の作品と比較すると、クロスハッチングによるグラデーションを付けた陰影描写が多用されており、かなり写実的な表現がとられている。また、登場人物のデザインも、ふつうのマンガで行われるようなキャラの描き分け(髪型や髪の毛の色・目の描き方等による記号的な描き分け)があまりなく、大体の登場人物が黒色の髪の毛で似たような目の形をしている。

 

このように、リアルさを追求して通常のマンガが行っているお作法を採用していないことが、アバラが読みにくい理由の1つだと考える。

一体なぜここまでして弐瓶勉はアバラでリアルさを追求しようとしたのだろうか。それは本人にしかわからないが、弐瓶勉はアバラで現実と同じような自律した世界を作り、それをカメラでのぞき込むようにしてマンガを描こうとしたのではないか。アバラは現実と同じように自律して回っている世界であるため、私たちに何の説明もしないし、私たちにとってのわかりづらさなど考慮されていないのである。しかしそのおかげで、私たちはアバラを読むとき、水槽の中につくられたビオトープをガラス越しに眺めているかのように、そこに確かに別の世界があることをリアルに感じられるのである。

 

 アバラを楽しむにはどうすればよいのか

 

とはいえ、いくらアバラがリアルに描かれているとしても、それが私たちにとってわけがわからないのであれば、宇宙人が作ったモニュメントを眺めているのと同じで、そこから共感や感動を得ることはできないだろう。アバラを真に楽しむためには、やはりアバラの世界を理解する必要がある。そのためにはどうすればよいのか。

 

当たり前の結論になってしまうのだが、アバラの方から説明がなされないのであれば、私たちの方からアバラの世界のルールを理解するしかない。娯楽なのに備えをしないと楽しめないなんて、と思われるかもしれないが、野球などのスポーツもルールを知らなければ楽しむことができない点では同じである。アバラもそういったものの1つだと思って、その奥にある豊饒さを楽しむため、まずは本文章を読み通すだけの少しの苦労を我慢してほしい。

 

さて、それではアバラを楽しむために理解しなければならない点は何か。私は (1) ストーリー、(2) 登場人物、(3) カメラ表現の3つだと考える。以降でこれら3つの点についてそれぞれ説明したい。

 

(1)ストーリー

まずストーリーだが、あまりにも意味不明である。これを初めて読んで理解できる人がいるのだろうか。私はまったくわからなかったし、最後の展開は新装版で作者の解説を読むまでわからなかった(読んでもあまりわかっていないが……)。

 

では、どうやってストーリーを理解すればよいかであるが、私は解説を読むことをおすすめしたい。ストーリーを楽しむために解説を読むというのは逆説的なのだが、解説を読むことをおすすめする理由は、アバラではストーリーを理解するための手がかりが散らばり過ぎており、解説を読まずに流れを理解するのは困難なのではないかと考えるからである。でたらめに提示される数字をみせられてそれらが何を意味するのかわからなくても、先に関数を教えてもらえれば、後から提示される数字がそのグラフ上のどの位置にあるか理解できるのと同じで、アバラのストーリーも解説を読んでおおまかな流れを理解しておいた方が、作品にちりばめられたヒントの意味を理解でき、最終的には楽しむことができるのではないかと考える。もちろん、ちりばめられたヒントからストーリーを読み解くことこそが面白いのだという意見もあると思うので、まず一度は何も見ずアバラのストーリーに挑戦してもらい、もしわからない場合には解説を読むことを検討していただきたい。その際の手助けになるよう、私の作った解説をこの文章の最後に載せておく。

 

(2)登場人物

2つ目の登場人物であるが、これは上述のとおりマンガ的なキャラクターの描き分けがそこまでされていないため、キャラクターを混同し、今映っているのが誰かわからないということが生じうる。これに対処するためには、もうキャラクターを暗記するしかない。なぜマンガを読むために暗記しなければならないのかと思われるかもしれないが、登場人物は多くないし、アニメや少年マンガほどわかりやすくはないが一応描き分けはされてはいるので、暗記という言葉から感じるほどの苦労はしないと思う。少しでも手助けになるよう、以下にいくつかの混同しやすいキャラクターを記載する。

 

まず、奇居子の敵・味方の見分け方である。黒奇居子が味方、白奇居子が敵なのであるが、似通ったデザインのものが登場するため、どっちがどっちか非常にわかりづらい。これを区別するためには、「トーンが貼られているかどうか」に着目してほしい。トーンが貼られていれば味方(黒奇居子)、貼られていなければ敵(白奇居子)である。

 

次に、味方の黒奇居子間の見分け方である。作中には黒奇居子が2体(電次と那由多)登場するが、どちらもデザインが似通っているためこちらも区別がつきづらい。見分け方は、「頭に辮髪のような鎖状の飾りがついているかどうか」である。辮髪がなければ電次、辮髪があれば那由多である。

 

最後に、亜由多と那由多の見分けかたである。彼女たちは検眼寮によって白奇居子に対抗するために実験を施された姉妹であるが、どちらも白髪で名前まで似ているのでこちらもややこしい。亜由多がショートカットで車いすにのっている方、那由多がロングヘアで黒奇居子に変身する方である。

 

そのほかの登場人物は比較的区別しやすいのではないかと思う。なお、検限寮のトップは化け物じみた顔をしているがふつうの人間である。

 

(3)カメラ表現

最後に、3点目のカメラ表現である。アバラでは、奇居子の高速戦闘を表すために前衛的なカメラ表現が用いられており、それがかなりの混乱を招く要因になっていると思うのでここで説明したい。

 

まず、設定として、奇居子は人の目で目視することができないような高速で動くことができる。目にも止まらないスピード感を表現する場合、マンガでは斜線を引いて動きを表現することが多いように思う(ドラゴンボールの戦闘シーン等)。一方、アバラでは、逆にスローモーション撮影のように高速で動く奇居子以外の物体や登場人物の動きを止めて描くことで、超高速を表現している。似た表現として、ジョジョの奇妙な冒険のザ・ワールドによって時間が止まった中での戦闘場面をイメージしてもらえればわかりやすいと思う。ジョジョの奇妙な冒険の場合は、ザ・ワールドがスタンド能力で時間を止めているが、アバラでは奇居子が超高速で動くため周りの世界が止まって見えている。具体的には、建物の破片が空中に巻き上げられた後に戦闘シーンが始まり、戦闘が終わった後の14ページ後にやっと破片が地面にぶつかるような描写がなされている。

 

ジョジョの場合は、時間が止まる前にディオが「ザ・ワールド!」と叫ぶので、読者側でも時間が止まったタイミングをつかむことができる。しかし、アバラではそういったきっかけなく突然にスローモーションに移行してしまうので、読者がスローモーションになったことに気付かず、読者が想定する時間の進み方と作中の時間の進み方がずれてしまうため、何が起こっているのかわからなくなってしまうのではないかと思う。

 

スローモーションに入ったことを見逃さないようにするには、まずは奇居子がコマ内に出てきているかどうかに注意する必要がある。奇居子こそが高速戦闘を行う主体なので、奇居子が登場するとスローモーションに移行している場合が多い。もう一つの手がかりは背景の描写である。スローモーション中は、先ほどの例のように破片や雨粒などが空中で静止しているように描かれているので、それらの表現からもスローモーションになっていることがわかる。また、スローモーション中は擬音が手描き文字ではなく写植になっているが(奇居子は音よりも早く動くので実際の音は聞こえないはずだから、それを表現するためと思われる)、この表現は序盤以外ではあまり用いられていない。さらに、やっかいなのだが、奇居子が出ているからといって必ずしもスローモーションで描かれているわけではない。その場合、奇居子は一瞬表れては突然消えたように描かれる。

 

これらは説明されるといかにもややこしく感じるが、「奇居子は目にも止まらぬ速さで動くのだ」、「そのためにスローモーションの技法が使われている場合があるのだ」ということさえ知っていれば自然に気付くことができ、そこまで混乱はしないと思う。

 

 アバラのストーリー解説

 

それでは、ここからは私なりにアバラのストーリーの解説をしたい。

 

まず、アバラの舞台は地球ではなく、船のようなものである[1]。そのアバラの世界は、遠い昔のあるとき別の世界とつながってしまい、その別の世界から化け物が侵入してくるようになる[2]。その化け物が白奇居子と呼ばれる敵である。白奇居子の侵入を防ぐ結界を張るため、恒差廟という巨大な塊が建造された。しかし、恒差廟の結界があっても、白奇居子の侵入を完全に防ぐことはできない。白奇居子は人間を依り代にしてその人間を白奇居子に変化させることで、結界内に侵入してくる(「示現体」と呼ばれる)。白奇居子は、通常の人の目には見えず、人を襲って食べ、成長して、最後には恒差廟を破壊する。恒差廟がすべて破壊されてしまうと、結界が解け、白奇居子が簡単に侵入できるようになってしまう。かつて恒差廟は何百機もあったようだが、作中の時点では二機しか残っていない。この白奇居子からの防衛戦が作品の基本的な構図である。

 

白奇居子の示現体の出現はまれであり、また侵入しても成長せずに幼生の内に死んでしまうことがほとんどだが 、数百年に一度程度の周期で示現体が連鎖的に発生する時期がある。作中より六百年以上昔は、第四紀連という企業がこの示現体の対策を行っていた。第四紀連は白奇居子を元に黒奇居子と呼ばれる兵器を開発し、白奇居子の撃退に成功していた。しかし、第四紀連も六百年前に示現体が発生したときに滅んでしまう。

 

(ここまでが過去の話で、ここから作中の時点となる。)第四紀連がなくなった後は、示現体の対策は検眼寮という組織によって秘密裡に実施されてきた。検眼寮は、示現体の発生が連鎖する周期が近づいていることから、連鎖に備えるため、第四紀連から受け継いで保管してきた黒奇居子を新たに作成することを決意する。その黒奇居子の被験体に選ばれたのが主人公の電次と亜由多・那由多の姉妹である。彼らは幼いころから検眼寮の擁護施設でタドホミや他の職員によって育てられてきたが、その黒奇居子の実験を受けて、亜由多と那由多は重度のしょうがいを負ってしまう。電次は一人無事であったが、自分たちを実験体にした検眼寮を憎み、黒奇居子に変身して職員を殺して脱走する。亜由多と那由多は検眼寮で生体兵器として管理されつづけることとなる。

 

電次の脱走後おそらく数年が経過したころ、示現体が発生してしまう。被害が出始めたにもかかわらず、白奇居子が自然に死ぬのを待って何の対応も取らない検眼寮への反感から、タドホミは電次の居場所を突き止め、白奇居子の対処を依頼する。電次によって白奇居子は倒されたが、検眼寮はかつて脱走した電次を連れ戻すため、那由他を派遣し電次を倒して検眼寮の施設に封じ込める。

 

その後も示現体の連鎖は続き、検眼寮は那由他を派遣して対処しようとするが被害を止めることができない。そんな状況に業を煮やしたタドホミは施設に封じ込められた電次を再び解放するが、妨害むなしく成長した白奇居子によって残っていた2つの恒差廟の内の1つが破壊されてしまう。

 

恒差廟の破壊によって結界が部分的に解けてしまい、大量の白奇居子が流れ込んでくる。電次と那由多が交戦して食い止めている間に、生き残っていた第四紀連の社員たちがタドホミと途中から行動を共にしてきた先島たちに残った最後の恒差廟に向かうように言う。実は恒差廟は脱出装置でもあり、恒差廟の起動によってタドホミと先島は別の世界に脱出する。最後の恒差廟の消滅によって電次と那由他は結界の外に放り出され、無数の白奇居子の群れに対峙して作品が終わる。

 

以上が私なりのストーリーの解説である。解説とはいえ、作品を読むときの楽しさを損なわないよう、大事なポイントは伏せて記載した。上で記載した以外にも、作中には電次とタドホミ、タドホミと父親とのすれ違いや、那由多と亜由多の関係等、印象に残るドラマチックな場面がたくさんある。上の解説を参考にぜひあらためてアバラを読んでみてほしい。

 

本記事ではアバラのとっつきづらいところを書いてきたため、アバラの魅力の部分は十分には記載できていないのだが、アバラは決してリアルなだけのわかりづらいマンガではない。上で書いたとおり、一度わかればアバラはとてもドラマチックなストーリー構成になっているし、ストーリーだけでなく、アメコミのようにコントラストの効いた死ぬほどかっこいいカットであったり、骸骨を想起させるダークで意味わからないほどむちゃくちゃにかっこいい黒奇居子のデザインなど見どころが満載されている(チェンソーマンの悪魔のデザインにもアバラの影響が感じられないだろうか)。

そんなわけで、アバラは、読めば読むほど当時の弐瓶勉が本作に注いだ並々ならぬ意気込みがほとばしって感じられる最高のマンガなのだ……(泣)ぜひこの文章を機に少しでも興味を持って触れていただければ幸いである。

 

[1] 新装版アバラ巻末作者コメント

[2] なお、新装版アバラ巻末作者コメントで、当時の記憶が曖昧であるため想像で補完しながらの考察として、「元々は恒差廟の発明が発端で別の世界とつながってしまった」とあるが、本考察はここでは採用しなかった。その理由として、①恒差廟が原因で別の世界とつながったとする場合、恒差廟がなくなれば当該別の世界とのつながりも断たれるのではないかと思うが、本編では逆に結界がなくなり白奇居子がなだれ込んでくる事態になっており、論理的に説明がつかないと思われるため、②結界をつくるためでないとしたら何のために最初の恒差廟が建造されたのか不明であるため、である。(ただし、想像で補完しながらとはいえ作者コメントに反するため、他の筋の通った考察を待ちたい。)

 

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なお、弐瓶勉の他の作品について記載した記事もあるので、最後に紹介する

meganeza.hatenablog.com

meganeza.hatenablog.com 

弐瓶勉を読む ~天国から見たBLAME!~

弐瓶勉の「BLAME!」はマンガとしては珍しいハードSF的世界観で有名な作品であり、巨大な建造物等に代表される圧倒的なスケール感や、トーンで覆いつくされた真っ黒な画面や、想像の余地を残した意味深なストーリー等で話題になることが多い。今回は、今までBLAME!が語られてきたのとは違った切り口から、BLAME!の魅力を語ってみたい。

 

要点から入ると、BLAME!は、SFによって現在の私たちに橋渡しされた、人工的な神話として読むことができる。

 

神話に似たモチーフが登場すること

例えば、BLAME!の世界では、ネットスフィアという現実と同じかそれ以上にむちゃくちゃに発展したインターネットができており、人はそこにアクセスすることで豊かな生活を過ごしていた。人は遺伝子の中にネットスフィアにアクセスするためのアクセス権を埋め込んでいて(ネット端末遺伝子という)、ネットスフィアにアクセスできることはほとんど市民権と同義になっていた。しかし、ある時、ネット端末遺伝子が汚染されてしまい、人はネットにアクセスできなくなってしまう。ネットスフィアにアクセスできなくなったことにより、ネットを介して統御していた建築ロボットは制御を失い、惑星を飲み込んで銀河系を覆うぐらいに無秩序に建築をし続けるようになる。また人類も、ネット端末遺伝子を失ったことで、セーフガードというネットスフィアウイルスバスター機能のような存在からウイルス判定を受けて攻撃を受けるようになってしまい、世界は混乱に陥ってしまう。その結果、BLAME!の作品がスタートする時点では、人はネットスフィアの技術どころか存在そのものを忘れてしまっており、そもそもどれぐらい生き残っているかもわかっておらず、世界は巨大な建造物によって分断されてしまい、別の居住区に住んでいる人と出会うこと等ほぼありえない、というような状況になってしまっている。

 

この設定は、バベルの塔の神話を彷彿とさせる。バベルの塔の神話は、かつてはすべての人間が同じ言葉を話していたが、人間が天に届くほどの塔を建造しようとしたところ、それを見た神が「人間がひとつの言葉を話しているからこのようなことを始めてしまったのだ」と考え、言葉をばらばらにしてしまう。それによって、人間たちは互いに意思疎通ができなくなり、塔の建設をあきらめ各地に散っていった、というものである(p.43『よくわかるキリスト教』)。人間の能力が失われてしまう点や、それによって人間がばらばらになってしまう点が似通ってはいないだろうか。

 

バベルの塔の神話では、人間は天に届くように塔の建設を始めたが、BLAME!では構築していたのはネットスフィアである。そうすると、ネットスフィアは天国のアナロジーなのだろうか。

 

作中にはこのほかにも、ネットスフィアが天国のアナロジーとして描かれていると思われる場面が存在する。例えば、珪素生物という敵が、太古の人類の遺伝子を使って、ネットスフィアにアクセスしようとする場面がある(BLAME!8巻)。その場面では、原っぱのようなだだっ広い場所に、大きな川が流れており、ネットスフィアはその川を渡った先にあるように描かれている。

現世とは違う世界が川によって隔てられており、川を渡って違う世界に行くという設定は、三途の川を彷彿とさせる。ここでもやはり、ネットスフィアは彼岸・天国のアナロジーとして描かれているように思われる。

 

それでは、ネットスフィアを天国として仮定したとき、そのほかの登場人物やガジェットはどのように見えてくるだろうか。

 

ネットスフィアを管理しているAIである統治局は、天使に当たりそうだ。そうすると、人間を攻撃してくるようになったセーフガードは、堕天した天使である悪魔だろうか。実際、セーフガードと統治局の外見は非常によく似たものとして描かれている。また、ヒロインのシボの体に高位のセーフガードがダウンロードされる場面があるが、その際のシボの背中には機械の羽が生え、頭の上に輪が浮いており、完全に天使の姿をしている。これも、ネットスフィアが天国のアナロジーであるという説を裏付けるものだ。

 

主人公の霧亥はどうなるだろう。霧亥はネットスフィアの技術でしか作ることができない武器である重力子放射線射出装置を持っている。その武器は、絶対に破壊できないとされる世界を分断している超構造体を唯一破壊することができるとされている。ここからも、ネットスフィアは地上の理を超えた特別な場所であることが示されている。また、神聖な武器を主人公が手にする設定はアーサー王伝説等の物語を思い出させる。

さらに、霧亥は、失われたとされる汚染されていないネット端末遺伝子を探して、世界を延々と探索している。ネット端末遺伝子が見つかれば、人類が再びネットスフィアにアクセスできるようになり、現在の混乱状態を終息させることができるのである。

 

これらの設定を、ネットスフィアが天国のアナロジーであるとする仮説に沿って抽象化すると、BLAME!は「主人公が、天国からもたらされた武器をもち、天国にたどり着くための鍵を探す話」ということになる。いかにも神話的な作りであることがわかるだろう。

 

自然状態が作られていること

さて、ここまで読んだ方は、「神話とは抽象度の高い物語なのだから、現在の小説やマンガの筋書きが神話に似るのは当たり前だろう」と思われるかもしれない。その指摘はまったくそのとおりで、上記のような神話との類似は、BLAME!だけでなくそのほかの物語にもみられるものだろう。それでは、私はBLAME!の何が特別だと言おうとしているのか?

 

2つ目のポイントは、BLAME!では、自然状態が人工的に作り出されているという点である。そのことによって、中世の人にとっての天国のように、ネットスフィアがリアリティを持った神聖なもの、人工の天国として現れている。

 

そもそも現代に生きる私たちにとって、天国とは何だろうか。少なくとも、現代の日本に住む私たちにとっては、それは通常意識されることはない。私たちは、雷が自然現象であることを知っており、罪を罰するのは人間だけであることを知っており、突然身に降りかかった不幸は単なる偶然であることを知っており、死んだあとにはどこにも行けないことを知っている。私たちは近代科学を学んでおり、世の中で様々な物事が起こる仕組みをそれによって理解できるので、普段の生活において天国のことを考える機会はほとんどない。

 

だが、昔の人は違ったのだろう。近代科学が発達する前は、人は、身の回りで起こる摩訶不思議なことや、降って湧いた幸不幸などの説明できない事象を、天国等の神秘的なものを通じて理解していたのだろう。その時代には、神話は神の意志が記された書物であり、それを理解することで神に近づくことができ、神が造った世界の仕組みを理解することができる、とより強く意識されていたはずだ。

近代科学を知り、ものごとの別の説明の仕方を学んでしまった私たちには、昔の人が天国を思う際に抱いていた感情や、神話に向かい合うときの気持ちや、それを通じて背後にある崇高な何かを感じようとする祈りを知ることができない。

少なくとも、私たちが近代科学をもってしても説明できない事象に巻き込まれて、それ以外の方法に頼らざるを得ないような状況に陥るまでは。

 

だが、ここでBLAME!を見てみたい。

上で述べたとおり、BLAME!は作中に人の手によってネットスフィアという人工的な天国が作られている。また、地上はネット端末遺伝子が失われたことによって、技術が暴走し、説明不可能な事象がむちゃくちゃに生じるようになってしまっている。人間を襲うセーフガードが徘徊しているし、ロボットが意味不明な建築を続けているし、そこら中にいつ・どのような目的で作られたかわからないオーパーツが埋まっている。

技術の暴走によって、近代科学をもってしても理解できない状態が、すなわち、「人工的な自然」とでもいえるような状況が、作中に作り出されているのである。

 

近代科学で理解不能な人工的な自然の前で、世界を理解するためには、私たちは近代科学以外のものに頼らざるを得ない。このような構造によって、BLAME!の世界では、消えかけていた天国がネットスフィアとなって、再び存在感を増して目の前に現れてくるのである。

実際に、BLAME!世界の混乱はネットスフィアが原因であるため、混乱の仕組みを理解するためにはネットスフィアにたどり着かなければならない。このような視点でみると、主人公の霧亥がネットスフィアを目指す旅は、ますます切実なものとして、巡礼者のような様相を帯びて見えてくる。こうして、霧亥を追って作品を読む私たちもまた、荒れ狂う自然の中、太古の昔に忘れられた道を懸命にたどって、再び天国への巡礼を始めるのである。

 

SFによって現在と橋渡しされていること 

最後に、BLAME!のこの構造は、作品の中に閉じられたものではないことを述べたい。物語はあくまで物語であり、現実の自分には関係のないものだと思うかもしれない。BLAME!世界において、天国が存在感を増して現れているからといって、それは作品の中だけの話であり、毎日仕事を終えた後ファミマで買った総菜をチンして食べてVtuberを見て寝る日々を過ごしている私たちに関係があるわけではない。

 

それは確かにそのとおりだが、私たちは想像力でその垣根を超えることができる。BLAME!はマンガとしては珍しいハードSF作品であるが、そもそもSFとファンタジーの違いとは何だろうか。SFもファンタジーも定義が曖昧で、この問いに唯一の答えはないと思われるが、SF翻訳家・評論家として著名な大森望は、SFの定義を以下のように示している。

 

科学的論理を基盤にしている。また、たとえ異星や異世界や超未来が舞台であっても、どこかで「現実」とつながっている(ホラー、ファンタジーとの区別)。
現実の日常ではぜったいに起きないようなことが起きる(ミステリとの区別)。
読者の常識を壊すような独自の発想がある(センス・オブ・ワンダーもしくは認識的異化作用)。
既存の(疑似)科学的なガジェットまたはアイデア(宇宙人、宇宙船、ロボット、超能力、タイムトラベルなど)が作中に登場する(ジャンル的なお約束)。

この四つすべてを満たせば本格SFだが、とか、だけとかでもSFに分類してかまわない。SF読者の間では、(リアリズム小説ではないという程度の意味で)だけで「SF」と呼ぶ場合もある(例:「村上春樹の今度のはSF?」「まあ、一応ね」)。
https://ohmori.tumblr.com/post/164655520313/%EF%BD%93%EF%BD%86%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%BE%A9-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%EF%BD%93%EF%BD%861500%E5%86%8A-%E5%9B%9E%E5%A4%A9%E7%B7%A8-1996-2005%E5%B7%BB%E6%9C%AB%E3%81%8A%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A

 

この定義の①の要素に注目してほしい。

ファンタジーもSFも、現実の世界にはない設定が登場する点では同じだ。ファンタジーなら魔法、SFならタイムマシンやワープ技術等。このように、SFもファンタジーもまったくのつくり話なのだが、SFはファンタジーのように現実とは切り離された別の世界の話ではなく、現実と地続きの世界が舞台になっており、この世界で技術が発展すればもしかしたら本当に生じるかもしれないものとして描かれている場合が多い。

BLAME!の世界も、現実世界とは全く異なる法則が当たり前に存在するファンタジー世界というよりは、技術の暴走によって一変してしまってはいるものの、出発点は現実世界に設定されていると言えるだろう。私たちは、遠い未来にBLAME!と同じようなことが実際に生じない可能性を否定できない。そう考えたとき、私たちは、SFがつないだ想像力の細い抜け道を通って、BLAME!の世界を自分たちにも生じうるもの、現実のものとして感じることができる。そして、そこにある人工の天国を垣間見ることができる。

 

私たちは昔の人がどのように天国を信じていたのかを知ることはできない。神話はただの昔話であり、天国の扉は遠い昔に閉ざされてしまった。

だが、BLAME!はそこに橋を架ける。人工的に作り上げた天国をもって、かつて人が天国にたどり着こうとした狂おしい努力を、その崇高な気持ちを、そしてその背後にある神聖な存在を、自分のもののように感じさせてくれるのである。

  

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弐瓶勉を読む

弐瓶勉は自分が最も好きな漫画家だったのだが、シドニアの騎士ぐらいからそれまでの作品ほどはまれなくなった。自分が昔の弐瓶勉のどこが好きで、なぜ好きじゃなくなってしまったのかを考えた。

 

方法として、弐瓶勉の作品に共通して登場するモチーフについて考えることにした。弐瓶勉の作品には、別々の作品であっても似通ったモチーフが登場する。たとえば、シドニアの騎士までの4作品(BLAME!、アバラ、バイオメガシドニアの騎士)には共通して、味方が敵に作り替えられてしまう描写が登場する。このような共通のモチーフに感情移入し共感できていたのに、モチーフが使われなくなっていったために共感できなくなったことが、作品にはまれなくなった理由なのではないかと考えたからだ。

 

それでは具体的にどのようなモチーフが使われていたかを挙げ、それらに自分がどのように感情移入していたかを考える。

 

まず、冒頭にも取り上げたが、弐瓶勉の作品には味方が敵に作り替えられてしまう描写が共通して登場する。BLAME!では、電気猟師がセーフガードに作り替えられてしまう。アバラでは、普通の人間が奇居子に変わって襲ってくる。バイオメガではゾンビウイルスが蔓延している。シドニアの騎士でも、がうなに食べられた操縦士をがうなが模倣して帰ってくる描写がある。

このモチーフに対し、自分は自分の対人不安を読み込んで共感していたのではないかと思う。よく知り合った人でも相手のことを完全に知り尽くすことはできない。味方が敵に作り替えられるというモチーフは、根本的に他者を知ることはできず、常に裏切られてしまうのではないかという恐怖と付き合っていかなければならないという、他者とかかわることの不安な側面を象徴できるモチーフだと思う。

また、ほかでもないヒロインが敵に作り替えられ、主人公と敵対する展開もたびたび登場する。BLAME!ではシボはセーフガードになり、アバラでは亜由多が白奇居子になる。シドニアの騎士においても星白を模したがうなが登場する(バイオメガには該当なし)。ヒロインという主人公に最も近しい距離にいる女性が敵に変わってしまうところは、上記のモチーフの特徴をより強調していると思う。

 

このほかにも、対人不安を象徴できるモチーフは登場する。他の例を挙げると、弐瓶勉の作品には知的しょうがいを負ったヒロインが共通してでてくる。BLAME!ではレベル9シボ、アバラでは那由他バイオメガではイオン・グリーン、シドニアの騎士はえな白が該当する。

知的しょうがいを負ったヒロインも、対人関係に自信のない自分が感情移入しやすいモチーフになっているように思う。普通の知的能力をもった相手に対しては対人不安が生じてしまうが、知的しょうがいを持っている場合には裏切られることはないからだ。

泣きゲーのヒロインにも知的しょうがいをもった女性が登場するらしいが、下記貼り付け先のブログではその理由として「制御困難な他者としての異性に対する不安の防衛」としてはたらいていたのではないか、という同様の考察がなされている。泣きゲーのヒロインに障害が必要だった理由----か弱いヒロインのfunction 貼り付け元  <https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20100703/p1> )

 

また、主人公を支援する双子のような存在が登場する点も共通している。BLAME!ではサナカン、アバラでは那由他が該当する。バイオメガでは、該当するとすれば同じ識臣で育てられた壬二珠が挙がると思うが、先の2作品ほど双子感はない(シドニアには該当なし)。双子のような存在は、他人ではなく自分の鏡写しであるがゆえに、対人不安を抱かさない存在である。

 

ここまで挙げた例から、自分は、ヒロインが敵にかわってしまうという展開に、得体のしれない不安なものとしての他者感を読み込んで、無意識に共感して惹きつけられていたのではないかと思う。また、対人関係に自信のない自分にとって不安を抱かせない心地のよいモチーフがそろえられていたことも、自分を引き付ける要因のひとつになっていたと思う。

また、これだけではなく、そのほかの展開においても、自分の共感を呼びおこすものが繰り返し登場する。

 

例えば、弐瓶勉の作品では、主人公が大切なものの防衛に失敗する展開がよく登場する。BLAME!ではほとんど全編を通じて防衛に失敗しているが、東亜重工編で電気猟師が虐殺されていく場面や、非公式階層編でシボと別れてしまう場面等が印象的だ。アバラにおいては守れなさ過ぎて地球が滅亡している。バイオメガでも、イオン・グリーンの奪還に失敗し続け、奪還したと思ったら敵に目的を果たされてしまう。また、物語中盤で主人公を助けてくれた村人の村が徹底的に壊滅させられる場面がある。シドニアでは、星白を守れないという重要な展開はあるが、そのほかには防衛に失敗する場面は思い浮かばない。

これらの防衛に失敗する場面にも、対人不安等からくる自己の不能感から感情移入していたのではないかと思う。

 

最も重要なのが結末の展開だ。弐瓶勉の作品には結末においても共通点がある。それは、サブ主人公とでもいうような位置にいたキャラクターがヒロインと性的に結ばれることで物語が終わる点だ。

BLAME!では、サブ主人公としてはサナカンが該当する。サナカンはヒロインのシボとの間で子供を作り、その子供が汚染されていないネット端末遺伝子(BLAME!世界を救う鍵)をもっていることを示唆して物語が終わる。アバラでは、サブ主人公の先島はヒロインのタドホミと別の世界に脱出し、アダムとイブになって終わる。バイオメガにおいても、コズロフがイオンと結ばれることでゾンビ禍が終わり、ハッピーエンドを迎える。一方で、シドニアの騎士においてはこのような結末はとられていない。

この共通する結末は、いわゆるセカイ系の物語における結末と類似している。セカイ系とは、アニメ・漫画・ゲーム・ライトノベルなど、日本のサブカルチャー諸分野における物語の類型の一つであり、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と東浩紀らによって定義されているが(貼り付け元  <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB>)、弐瓶勉の作品においては、主人公の代わりにサブ主人公がヒロインと結ばれることで世界が救われることとなる。主人公が主人公であるにも関わらず、世界を救うことに直接的に関与できず、しかもヒロインはそばにいないという、自分の不能感を刺激するまるでネトラレのような結末に、自信のない自分は強く惹きつけられていたのではないかと思う。

 

ここまで弐瓶勉の作品に共通するモチーフを取り上げ、それらのモチーフが対人不安や、自信のなさをもっている自分の共感を引き起こしていたのではないかということを見てきた。それでは、最初に立てた仮説のとおり、これらのモチーフは作品に登場しなくなっていったのだろうか。結果としては、実際に登場しなくなっていると思う。下表は上で見てきた要素をまとめたものである。

 

BLAME!

(1997-2003)

アバラ

(2005-2006)

バイオメガ

(2004-2009)

シドニアの騎士

(2009-2015)

知的しょうがいをもったヒロイン

双子のような存在

×

ヒロインから敵への変身

×

防衛失敗

サブ主人公とヒロインがくっつく結末

×

 

以上から、自分が最近の弐瓶勉にはまれなくなった理由のひとつに、対人不安や自信のなさをもった自分が共感できるモチーフ・展開があまり登場しなくなったことがあると考えた。

 

~~~~~~~~~~

追記:本文章を書いた後、本文章で行った議論をさらに展開して以下の2つの記事を書いたので最後に紹介する。

 

弐瓶勉の作品に共通して登場するモチーフの変遷と国内同人誌ジャンルの移り替わり(ネトラレ→催眠もの)との共通点を論じたもの。

meganeza.hatenablog.com

 

弐瓶勉の作品に共通して登場するモチーフの分析から、現代の日本社会で生きる意味の見出し方について検討したもの。

meganeza.hatenablog.com

 

BLAME!(1) (アフタヌーンコミックス)

BLAME!(1) (アフタヌーンコミックス)

 
ABARA 上 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

ABARA 上 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 

スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険 模造クリスタル

スペクトラルウィザードの続編があるとはまさか思っていなかったのでほんとにうれしかった。前作はここ最近で一番好きなマンガだった。今作は前作よりももっとエンタメ感が強いように思ったが、心にささる心情描写もあって前作に負けず劣らずよかった。

 

今作はクリスタルウィザードの行動を中心に騎士団の謎にせまっていくミステリー仕立てになってて、ストーリーで先を読ませる作品になってた。作者の作品はこれまではキャラクターの心情描写が中心でストーリーはそこまでメインな感じではない印象だったので意外だった。前作(無印)の最終話もストーリーメインだったので、それのテイストに近いと思う。

 

前作では輝かしい過去と現在を対比し、そこから生じる憧憬や後悔などの後ろ向きな感情が中心に置かれていたが、今作はサブキャラのミサキちゃんのスペクトラに対するかかわり方を通じて、人とのかかわり方がメインのテーマの1つになっていたと思う。

 

主人公のスペクトラは魔女、ミサキちゃんは魔女を取り締まる騎士団の一員で、立場上は対立関係にあるが、スペクトラがあまり敵対的でなくピンチのときにはスペクトラの支援を仰ぐなどふわっとした友好的な関係を築いていた。しかし、ミサキちゃんのスペクトラに対するかかわり方は「魔女を取り締まる」という目標に向かうためのもので、いうならば目標達成の道具としてスペクトラをいいように利用していた面があった。騎士団という警察組織の価値観、すなわち正義感に忠実なことが風紀委員長みたいなミサキちゃんを形成していた。

一方で、そのような道具のように扱う中でもミサキちゃんのスペクトラに対する感情ははぐくまれていた。スペクトラと対立したときに、これまで意識していなかった自分のスペクトラに対する感情と、自分の中心であった正義感が緊張関係になり、そこからの展開でやばいカタルシスを生み出していた。

 

この作者はスペクトラルウィザードシリーズでキャラクターデザインとカタルシスの作り方がすごくうまくなっているように思う。今作もぽけーっと読み進めていたら最後にそんなところに盛り上がりをもってくるのか、とびびってしまった。キャラデザも絶妙なデフォルメで、出てくるキャラクター全員がむちゃくちゃかわいくてページをめくってるだけで幸せになる。

 

 

深夜特急 沢木耕太郎

読んでると昔した一人旅行を思い出して懐かしくなった。これまで一人旅行したのは鎌倉、諏訪、東北の三回で、どれも1~2泊ぐらいの小規模なものだった。その中では諏訪の旅行が一番印象に残っている。電車の扉が押ボタン式なのを知らないで扉の前で待っていたことや、小雨の中上下4つの諏訪神社をまわったことや、止まった古い旅館の畳で寝転がりながらシャドウバースをしていたことなど、なんでこんなこと覚えているんだろうと思うような細部もなぜか記憶に残っている。

 

自分が一人で旅行に行くときに特に明確な理由はなかった。一人でいた方が気楽だけど、まとまった休みに何もやることがないので、どうせなら旅行でも行くか、というのがいつもの感じだったように思う。自分のことをそれほど一人旅好きだとは思わないが、3回も行ってるということは嫌いでもないのかもしれない。でも一人旅から得られた経験は、支払ったコストと比較してそれほど多かったのだろうかと考えると悩んでしまう。自分は一人で旅行に行って何かコストに見合う経験を得たのだろうか。なにも思い当たるものがない。旅先で買ったちゃっちいお土産のような思い出のかけらが、そこそこの時間と安くはない費用を支払って手に入れたかったものなのだろうか。

 

この本を読んでも、作者がなぜ旅をしようと思ったのか、旅をして何を得たのかははっきりとは描かれていなかった。異なる文化に触れて感じたことや、住民とのコミュニケーションや、たまの内省が書かれてはいるが、肝心の旅の明確な動機はないままに話が進んでいった。電車を勧める駅員との言い争いの場面で、その動機のなさが表面化していたように思う。駅員から電車を使えと言われているのにバスで行きたいと言い張って、その理由をうまく言えずとにかく行きたいのだと作者が主張するところでは、駅員の方に感情移入して、バスで行きたい理由がなければ電車でいいではないかと思ってしまった。結局、この作者が何でバスで行きたかったのか、そもそもなんで一人旅をしようと思ったのか、この旅によってその目的が達成されたのかは、最後まで読んでもわからなかった。

 

答えが明確に書かれていなかったので、読み終わった後、何が旅の魅力(旅の目的となりうるもの)なのかいろいろ考えてしまったのだが、旅行とは、楽しみのために、(1)出発地から離れて、(2)別の場所に行くこと、だと言えそうだ。

(1)からは、①日々の仕事等の義務・人間関係のしがらみ等、日常におけるネガティブな要素から離れられること、②日常ではなかなか持てなかった一人の時間(または同行人との親密な時間)が持てること、等の魅力が引き出せるように思う。

(2)からは、③異なる文化に触れて自己の価値観を相対化できること、④美しい自然や芸術やおいしい食べ物を楽しめること、⑤旅先で出会うトラブルの解決を通じて達成感を得られること、等の魅力が引き出せるように思う。

 

個人的には、④をもっとも重視しつつ、若干⑤もあればいいなぐらいの気持ちで旅行に行っている気がする。①や②はあんまりないし、③のようなことを特別意識しながら旅行に出たこともないと思う。⑤は、積極的には望んではいないけど、何の不安もないツアーより自分でコースを考えて行く方が好きだし、トラブルに出会った旅の方がなんだかんだいい思い出になっているので、消極的に欲している感がある。

実際には、①②④あたりを目的に旅に出たらそのほかのもごちゃまぜになってふりかかってくる複合性というかランダムさも旅の魅力を構成する要素のように思う。

 

ここまで考えて、旅行には明確な目的はやはりなくてもいいような気がしてきた。最初に何か目的があったとしても、向こうからごった返して魅力が押し寄せてきて、最初の目的ももみくちゃになってよくわからなくなるけど、あとからふりかえってなんかまた行きたいとなるのが旅行なのかもしれない。

 

この本を読んで中東に行ってみたくなった。青空が広がっている砂漠の町というのはとてもよさそうだ。

 

深夜特急1?香港・マカオ? (新潮文庫)

深夜特急1?香港・マカオ? (新潮文庫)