弐瓶勉を読む ~アバラのよみかた~

 

「アバラ」は、弐瓶勉の2作目の長編で、全2巻からなるSFバトルマンガであり、チェンソーマンの作者である藤本タツキが「チェンソーマンは「ポップなアバラ」を目指して描いている」と述べたことで興味を持った方も多いかと思う。 

「チェンソーマン」300万部突破、藤本タツキからのコメント&イラストも(コメントあり) - コミックナタリー

 

だが、初めてアバラを読んだ方は、その読みにくさに戸惑いを覚えるのではないか。実際、私もそうだった。場面が飛びまくって話の流れがどうなっているのかわからないし、同じようなデザインの化け物が理由も明かされないまま戦っていてどっちがどっちかもわからず、最後は見開きの抽象画で説明もなしに終わってしまう。多くの方は、「なんだかよくわからないマンガだな」と思って、本棚に戻してそれっきりだろう。

 

しかし、それはあまりにも惜しい。アバラはその読みにくさの後ろに、奥深いストーリーや、挑戦的なマンガ表現や、芸術的なカットや、そして何よりすばらしいデザインが詰め込まれた、色々な楽しみ方ができるマンガだからだ。

 

そこで、今回は、少しでも多くの方がアバラを楽しんでもらえるようになることを目標に、読みにくさからアバラに挫折してしまった方に向けて、アバラがむずかしく感じる理由を丁寧に解説し、どうすればアバラが読めるようになるのか説明したい。

 

 なぜアバラはむずかしいのか?

 

細かな話に入る前に、まずアバラのむずかしさの根っこにある理由について述べたい。アバラがとっつきにくく思われるのには、ストーリや絵柄などでふつうのマンガでは採用されないような方法がとられているからなのだが、それらは「リアルさ」を追求するためにあえてそのような方法がとられている。

 

ストーリーを例にすると、例えば少年マンガでは、物語の序盤で、その世界への門外漢・初心者である登場人物が登場し、その初心者に対して作中の先生や先輩のような人物が、「やれやれそんなこともしらないのか」とあきれながら説明をすることで、読者に対しても間接的に作品世界の設定を紹介するような方法がとられている場合が多いと思う。あるいは、モノローグで直接的に説明がなされる場合もあるだろう。

 

一方で、アバラではこういった導入がほとんどない。登場人物が専門用語だらけのわけのわからない話をしたかと思ったらもうすぐに化け物バトルが始まってしまう。なぜこのような不親切な方法がとられているかであるが、それはアバラが写実的な、リアルな作品を志向しているからだと思われる。モノローグによる説明は現実にはなされないものだ。世界は私たちを中心には回っているわけではなく、そこで生じる事象や私たちがなすべきことについて、誰かがいちいち説明を与えてくれるわけではない。アバラでは、現実と同様に、このような読者への解説がほとんど排されている。

 

アバラの写実性・リアルさへの志向は絵柄にも表れている。アバラでは、前作のBLAME!以上にクロスハッチングによるグラデーションを付けた陰影描写が多用されており、より写実的な表現となっている。また、登場人物のデザインも、アニメや少年漫画によくある髪型や髪の毛の色、目の描き方等による記号的な描き分けはほとんどなされておらず、大体の登場人物が似たような目の形、黒色の髪の毛をしている。

 

このように、アバラはリアルさを追求して、通常のマンガが行うような方法を採用していないため、そこがアバラが読みにくい理由の1つだと考える。弐瓶勉はアバラで、現実と同じような自律した世界を作り、それをカメラでのぞき込むようにマンガを描こうとしたのだと思う。アバラは現実と同じように自律して回っている世界であるため、私たちに何の説明もしないし、私たちにとってのわかりづらさなど考慮されていないのである。しかしそのおかげで、私たちはアバラを読むとき、水槽の中につくられたビオトープをガラス越しに眺めているかのように、そこに確かに別の世界があることをリアルに感じられるのである。

 

 アバラを楽しむにはどうすればよいのか

 

とはいえ、いくらアバラがリアルに描かれているとしても、それが私たちにとってわけがわからないのであれば、宇宙人が作ったモニュメントを眺めているのと同じで、そこから共感や感動を得ることはできないだろう。アバラを真に楽しむためには、やはりアバラの世界を理解する必要がある。そのためにはどうすればよいのか。

 

当たり前の結論になってしまうのだが、アバラの方から説明がなされないのであれば、私たちの方からアバラの世界のルールを理解するしかない。備えをしないと楽しめないというのは、ことマンガにおいては異様に思われるかもしれないが、野球などのスポーツ観戦もルールを知らなければ楽しむことができない点では同じである。アバラもそういったものの1つだと思って、その奥にある豊饒さを楽しむため、まずは本文章を読み通すだけの少しの苦労を我慢してほしい。

 

さて、それではアバラを楽しむために理解しなければならない点は何か。それは、(1)ストーリー、(2)登場人物、(3)カメラ表現の3つであると考える。

 

(1)ストーリー

まずストーリーであるが、ちんぷんかんぷんである。これを初めて読んで理解できる人がいるのだろうか。では、どうやってストーリーを理解すればよいかであるが、私は解説を読むことをおすすめしたい。ストーリーを楽しむために解説を読むというのは逆説的なのだが、解説を読むことをおすすめする理由は、アバラではストーリーを理解するための手がかりが散らばり過ぎており、解説を読まずに流れを理解するのは困難なのではないかと考えるからである。でたらめに提示される数字をみせられてそれらが何を意味するのかわからなくても、先に関数を教えてもらえれば、後から提示される数字がそのグラフ上のどの位置にあるか理解できるのと同じで、アバラのストーリーも解説を読んでおおまかな流れを理解しておいた方が、作品にちりばめられたヒントの意味を理解でき、最終的には楽しむことができるのではないかと考える。もちろん、ちりばめられたヒントからストーリーを読み解くことこそが面白いのだという意見もあると思うので、まず一度は何も見ずアバラのストーリーに挑戦してもらい、もしわからない場合には解説を読むことを検討していただきたい。その際の手助けになるよう、私の作った解説をこの文章の最後に載せておく。

 

(2)登場人物

2つ目の登場人物であるが、これは上述のとおりマンガ的なキャラクターの描き分けがそこまでされていないため、キャラクターを混同し、今映っているのが誰かわからないということが生じうる。これに対処するためには、もうキャラクターを暗記するしかない。なぜマンガを読むために暗記しなければならないのかと思われるかもしれないが、ドストエフスキーを楽しむためにもロシア語のややこしい名前をたくさん覚えなければならないので、それと比べるとましだと思っていただければと思う。とはいえ、登場人物は多くないし、少年マンガほどわかりやすくはなくても一応描き分けはされてはいるので、暗記という言葉から感じるほどの苦労はしないと思う。少しでも手助けになるよう、以下にいくつかの混同しやすいキャラクターを記載する。

 

まず、奇居子の敵・味方の見分け方である。黒奇居子が味方、白奇居子が敵なのであるが、似通ったデザインのものが登場するため、どっちがどっちか非常にわかりづらい。これを区別するためには、「トーンが貼られているかどうか」に着目してほしい。トーンが貼られていれば味方(黒奇居子)、貼られていなければ敵(白奇居子)である。

 

次に、味方の黒奇居子間の見分け方である。作中には黒奇居子が2体(電次と那由多)登場するが、どちらもデザインが似通っているためこちらも区別がつきづらい。見分け方は、「頭にちょんまげのような鎖状の飾りがついているかどうか」である。ちょんまげがなければ電次、ちょんまげがあれば那由多である。

 

最後に、亜由多と那由多の見分けかたである。彼女たちは検眼寮によって白奇居子に対抗するために実験を施された姉妹であるが、どちらも白髪で名前まで似ているのでこちらもややこしい。亜由多がショートカットで車いすにのっている方、那由多がロングヘアで黒奇居子に変身する方である。

 

そのほかの登場人物は比較的区別しやすいのではないかと思う。なお、検限寮のトップは化け物じみた顔をしているがふつうの人間である。

 

(3)カメラ表現

最後に、3点目のカメラ表現である。アバラでは、奇居子の高速戦闘を表すために前衛的なカメラ表現が用いられており、それがかなりの混乱を招く要因になっていると思うのでここで説明したい。

 

まず、設定として、奇居子は人の目で目視することができないような高速で動くことができる。そのスピード感を表現するために、ドラゴンボールの戦闘シーンのように目に留まらない動きを斜線で表現するのではなく、逆にスローモーション撮影のように高速で動く奇居子以外の物体や登場人物の動きを止めることで、奇居子の超高速が表現されている。ジョジョの奇妙な冒険で、ザ・ワールドによって時間が止まった中での戦闘場面をイメージしてもらえればわかりやすいと思う。ジョジョの奇妙な冒険の場合は、ザ・ワールドがスタンド能力で時間を止めているが、アバラでは奇居子が超高速で動くため周りの世界が止まって見えている。具体的には、白奇居子に破壊された建物の破片が空中に巻き上げられた後、白奇居子と黒奇居子の戦闘が始まり、戦闘が終わった後の14ページ後にやっと破片が地面にぶつかる描写がなされていたりする。

 

ジョジョの場合は、時間が止まる前にディオが「ザ・ワールド!」と叫ぶので、読者側でも時間が止まったタイミングをつかむことができる。しかし、アバラではそういったきっかけなく突然にスローモーションに移行してしまうので、読者がスローモーションになったことに気付かず、読者が想定する時間の進み方と作中の時間の進み方がずれてしまうため、何が起こっているのかわからなくなってしまうのではないかと思う。

 

スローモーションに入ったことを見逃さないようにするには、まずは奇居子がコマ内に出てきているかどうかに注意する必要がある。奇居子こそが高速戦闘を行う主体なので、奇居子が登場するとスローモーションに移行している場合が多い。もう一つの手がかりは背景の描写である。スローモーション中は、先ほどの例のように破片や雨粒などが空中で静止しているように描かれているので、それらの表現からもスローモーションになっていることがわかる。また、スローモーション中は擬音が手描き文字ではなく写植になっているが(奇居子は音よりも早く動くので実際の音は聞こえないはずだから、それを表現するためと思われる)、この表現は序盤以外ではあまり用いられていない。

 

さらに、やっかいなのだが、奇居子が出ているからといって必ずしもスローモーションで描かれているわけではない。その場合、奇居子は一瞬表れては突然消えたように描かれるので、上と比べながらスローモーションに入っているかを確認する必要がある。

 

これらは説明されるといかにもややこしく感じるが、「奇居子は目にも止まらぬ速さで動くのだ」、「そのためにスローモーションの技法が使われている場合があるのだ」ということさえ知っていれば、わりかし自然に気付くことができ、そこまで混乱はしないと思う。

 

 アバラのストーリー解説

 

それでは、ここからは私なりにアバラのストーリーの解説をしたい。

 

まず、アバラの舞台は地球ではなく、船のようなものである[1]。そのアバラの世界は、遠い昔のあるとき別の世界とつながってしまい、その別の世界から化け物が侵入してくるようになる[2]。その化け物が白奇居子と呼ばれる敵である。白奇居子の侵入を防ぐ結界を張るため、恒差廟という巨大な塊が建造された。しかし、恒差廟の結界があっても、白奇居子の侵入を完全に防ぐことはできない。白奇居子は人間を依り代にしてその人間を白奇居子に変化させることで、結界内に侵入してくる(「示現体」と呼ばれる)。白奇居子は、通常の人の目には見えず、人を襲って食べ、成長して、最後には恒差廟を破壊する。恒差廟がすべて破壊されてしまうと、結界が解け、白奇居子が簡単に侵入できるようになってしまう。かつて恒差廟は何百機もあった[3]ようだが、作中の時点では二機しか残っていない[4]。この白奇居子からの防衛戦が作品の基本的な構図である。

 

白奇居子の示現体の出現はまれであり、また侵入しても成長せずに幼生の内に死んでしまうことがほとんどだが[5]、数百年に一度程度の周期で[6]、示現体が連鎖的に発生する時期がある[7]。作中より六百年以上昔は、第四紀連という企業がこの示現体の対策を行っていた。第四紀連は白奇居子を元に黒奇居子と呼ばれる兵器を開発し、白奇居子の撃退に成功していた。しかし、第四紀連も六百年前に示現体が発生したときに滅んでしまう。

 

ここまでが過去の話で、ここから作中の時点となる。第四紀連がなくなった後は、示現体の対策は検眼寮という大政官(今でいう内閣)[8]直轄の組織によって秘密裡に実施されてきた。検眼寮は、示現体の発生が連鎖する周期が近づいていることから、連鎖に備えるため、第四紀連から受け継いで保管してきた黒奇居子を新たに作成することを決意する。その黒奇居子の被験体に選ばれたのが主人公の電次と亜由多・那由多の姉妹である。彼らは幼いころから検眼寮の擁護施設でタドホミや他の職員によって育てられてきたが、その黒奇居子の実験を受けて、亜由多と那由多は重度のしょうがいを負い、電次のことがわからなくなってしまう。電次は一人無事であったが、自分たちを実験体にした検眼寮を憎み、黒奇居子に変身して職員を殺して脱走する。亜由多と那由多は検眼寮で生体兵器として管理されつづけることとなった。

 

電次の脱走後おそらく数年が経過したころ、示現体が発生してしまう。被害が出始めたにもかかわらず、白奇居子の幼生時の死亡を頼んで何らの対応も取らない検眼寮への反感から、タドホミは電次の居場所を突き止め、白奇居子の対処を依頼する。電次によって白奇居子は倒されたが、検眼寮はかつて脱走した黒奇居子である電次を連れ戻すため、那由他を派遣し電次を倒して検眼寮の施設に封じ込める。

 

その後も示現体の連鎖は続き、検眼寮は那由他を派遣して対処しようとするが被害を止めることができない。そんな状況に業を煮やしたタドホミは施設に封じ込められた電次を再び解放するが、妨害むなしく成長した白奇居子によって残っていた2つの恒差廟の内の1つが破壊されてしまう。

 

恒差廟の破壊によって結界が部分的に解けてしまい、大量の白奇居子が流れ込んでくる。電次と那由多が交戦して食い止めている間に、生き残っていた第四紀連の社員たちがタドホミと途中から行動を共にしてきた先島たちに残った最後の恒差廟に向かうように言う。実は恒差廟は脱出装置でもあったのだ。恒差廟の起動によってタドホミと先島は別の世界に脱出する。最後の恒差廟の消滅によって電次と那由他は結界の外に放り出され、無数の白奇居子の群れに対峙して作品が終わる。

 

以上が私なりのストーリーの解説である。解説とはいえ、作品を読むときの楽しさを損なわないよう、大事なポイントは伏せて記載した。上で記載した以外にも、作中には電次とタドホミ、タドホミと父親とのすれ違いや、那由多と亜由多の関係等、印象に残るドラマチックな場面が多々ある。上の解説を参考にぜひ自身でアバラを読んでみてほしい。

また、アバラはドラマチックなストーリー構成だけでなく、一枚絵のような外連味の効いたカットであったり、骸骨を想起させるダークでむちゃくちゃかっこいい黒奇居子のデザインなど見どころが満載されており、当時の弐瓶勉が本作に注いだ並々ならぬ意気込みがほとばしって感じられる最高のマンガなのだ。。ぜひこの文章を機に少しでも興味を持って触れていただければ幸いである。

 

ABARA 上 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

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新装版 ABARA (KCデラックス)

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  • 作者:弐瓶 勉
  • 発売日: 2015/08/21
  • メディア: コミック
 

 

[1] 新装版アバラ巻末作者コメント

[2] なお、新装版アバラ巻末作者コメントで、当時の記憶が曖昧であるため想像で補完しながらの考察として、「元々は恒差廟の発明が発端で別の世界とつながってしまった」とあるが、本考察はここでは採用しなかった。その理由として、①恒差廟が原因で別の世界とつながったとする場合、恒差廟がなくなれば当該別の世界とのつながりも断たれるのではないかと思うが、本編では逆に結界がなくなり白奇居子がなだれ込んでくる事態になっており、論理的に説明がつかないと思われるため、②結界をつくるためでないとしたら何のために最初の恒差廟が建造されたのか不明であるため、である。(ただし、想像で補完しながらとはいえ作者コメントに反するため、他の筋の通った考察を待ちたい。)

[3] 第10話

[4] 第11話の「胞子船は二隻しかなかった」という台詞から

[5] 第3話

[6] 第10話の「最後に白奇居子に恒差廟が破壊されて(中略)からもうすぐ六百年になる」という台詞からの推測

[7] 第4話の「連鎖ガ始マッテシマッタノカ」および第10話「周期説が正しければ(後略)」という台詞からの推測

[8] 「大政官」が日本の律令制や明治政府時代の内閣に当たる「太政官」に該当すると思われることからの推測

弐瓶勉を読む ~天国から見たBLAME!~

弐瓶勉の「BLAME!」はマンガとしては珍しいハードSF的世界観で有名な作品であり、巨大な建造物等に代表される圧倒的なスケール感や、トーンで覆いつくされた真っ黒な画面や、想像の余地を残した意味深なストーリー等で話題になることが多い。今回は、今までBLAME!が語られてきたのとは違った切り口から、BLAME!の魅力を語ってみたい。

 

要点から入ると、BLAME!は、SFによって現在の私たちに橋渡しされた、人工的な神話として読むことができる。

 

神話に似たモチーフが登場すること

例えば、BLAME!の世界では、ネットスフィアという現実と同じかそれ以上にむちゃくちゃに発展したインターネットができており、人はそこにアクセスすることで豊かな生活を過ごしていた。人は遺伝子の中にネットスフィアにアクセスするためのアクセス権を埋め込んでいて(ネット端末遺伝子という)、ネットスフィアにアクセスできることはほとんど市民権と同義になっていた。しかし、ある時、ネット端末遺伝子が汚染されてしまい、人はネットにアクセスできなくなってしまう。ネットスフィアにアクセスできなくなったことにより、ネットを介して統御していた建築ロボットは制御を失い、惑星を飲み込んで銀河系を覆うぐらいに無秩序に建築をし続けるようになる。また人類も、ネット端末遺伝子を失ったことで、セーフガードというネットスフィアウイルスバスター機能のような存在からウイルス判定を受けて攻撃を受けるようになってしまい、世界は混乱に陥ってしまう。その結果、BLAME!の作品がスタートする時点では、人はネットスフィアの技術どころか存在そのものを忘れてしまっており、そもそもどれぐらい生き残っているかもわかっておらず、世界は巨大な建造物によって分断されてしまい、別の居住区に住んでいる人と出会うこと等ほぼありえない、というような状況になってしまっている。

 

この設定は、バベルの塔の神話を彷彿とさせる。バベルの塔の神話は、かつてはすべての人間が同じ言葉を話していたが、人間が天に届くほどの塔を建造しようとしたところ、それを見た神が「人間がひとつの言葉を話しているからこのようなことを始めてしまったのだ」と考え、言葉をばらばらにしてしまう。それによって、人間たちは互いに意思疎通ができなくなり、塔の建設をあきらめ各地に散っていった、というものである(p.43『よくわかるキリスト教』)。人間の能力が失われてしまう点や、それによって人間がばらばらになってしまう点が似通ってはいないだろうか。

 

バベルの塔の神話では、人間は天に届くように塔の建設を始めたが、BLAME!では構築していたのはネットスフィアである。そうすると、ネットスフィアは天国のアナロジーなのだろうか。

 

作中にはこのほかにも、ネットスフィアが天国のアナロジーとして描かれていると思われる場面が存在する。例えば、珪素生物という敵が、太古の人類の遺伝子を使って、ネットスフィアにアクセスしようとする場面がある(BLAME!8巻)。その場面では、原っぱのようなだだっ広い場所に、大きな川が流れており、ネットスフィアはその川を渡った先にあるように描かれている。

現世とは違う世界が川によって隔てられており、川を渡って違う世界に行くという設定は、三途の川を彷彿とさせる。ここでもやはり、ネットスフィアは彼岸・天国のアナロジーとして描かれているように思われる。

 

それでは、ネットスフィアを天国として仮定したとき、そのほかの登場人物やガジェットはどのように見えてくるだろうか。

 

ネットスフィアを管理しているAIである統治局は、天使に当たりそうだ。そうすると、人間を攻撃してくるようになったセーフガードは、堕天した天使である悪魔だろうか。実際、セーフガードと統治局の外見は非常によく似たものとして描かれている。また、ヒロインのシボの体に高位のセーフガードがダウンロードされる場面があるが、その際のシボの背中には機械の羽が生え、頭の上に輪が浮いており、完全に天使の姿をしている。これも、ネットスフィアが天国のアナロジーであるという説を裏付けるものだ。

 

主人公の霧亥はどうなるだろう。霧亥はネットスフィアの技術でしか作ることができない武器である重力子放射線射出装置を持っている。その武器は、絶対に破壊できないとされる世界を分断している超構造体を唯一破壊することができるとされている。ここからも、ネットスフィアは地上の理を超えた特別な場所であることが示されている。また、神聖な武器を主人公が手にする設定はアーサー王伝説等の物語を思い出させる。

さらに、霧亥は、失われたとされる汚染されていないネット端末遺伝子を探して、世界を延々と探索している。ネット端末遺伝子が見つかれば、人類が再びネットスフィアにアクセスできるようになり、現在の混乱状態を終息させることができるのである。

 

これらの設定を、ネットスフィアが天国のアナロジーであるとする仮説に沿って抽象化すると、BLAME!は「主人公が、天国からもたらされた武器をもち、天国にたどり着くための鍵を探す話」ということになる。いかにも神話的な作りであることがわかるだろう。

 

自然状態が作られていること

さて、ここまで読んだ方は、「神話とは抽象度の高い物語なのだから、現在の小説やマンガの筋書きが神話に似るのは当たり前だろう」と思われるかもしれない。その指摘はまったくそのとおりで、上記のような神話との類似は、BLAME!だけでなくそのほかの物語にもみられるものだろう。それでは、私はBLAME!の何が特別だと言おうとしているのか?

 

2つ目のポイントは、BLAME!では、自然状態が人工的に作り出されているという点である。そのことによって、中世の人にとっての天国のように、ネットスフィアがリアリティを持った神聖なもの、人工の天国として現れている。

 

そもそも現代に生きる私たちにとって、天国とは何だろうか。少なくとも、現代の日本に住む私たちにとっては、それは通常意識されることはない。私たちは、雷が自然現象であることを知っており、罪を罰するのは人間だけであることを知っており、突然身に降りかかった不幸は単なる偶然であることを知っており、死んだあとにはどこにも行けないことを知っている。私たちは近代科学を学んでおり、世の中で様々な物事が起こる仕組みをそれによって理解できるので、普段の生活において天国のことを考える機会はほとんどない。

 

だが、昔の人は違ったのだろう。近代科学が発達する前は、人は、身の回りで起こる摩訶不思議なことや、降って湧いた幸不幸などの説明できない事象を、天国等の神秘的なものを通じて理解していたのだろう。その時代には、神話は神の意志が記された書物であり、それを理解することで神に近づくことができ、神が造った世界の仕組みを理解することができる、とより強く意識されていたはずだ。

近代科学を知り、ものごとの別の説明の仕方を学んでしまった私たちには、昔の人が天国を思う際に抱いていた感情や、神話に向かい合うときの気持ちや、それを通じて背後にある崇高な何かを感じようとする祈りを知ることができない。

少なくとも、私たちが近代科学をもってしても説明できない事象に巻き込まれて、それ以外の方法に頼らざるを得ないような状況に陥るまでは。

 

だが、ここでBLAME!を見てみたい。

上で述べたとおり、BLAME!は作中に人の手によってネットスフィアという人工的な天国が作られている。また、地上はネット端末遺伝子が失われたことによって、技術が暴走し、説明不可能な事象がむちゃくちゃに生じるようになってしまっている。人間を襲うセーフガードが徘徊しているし、ロボットが意味不明な建築を続けているし、そこら中にいつ・どのような目的で作られたかわからないオーパーツが埋まっている。

技術の暴走によって、近代科学をもってしても理解できない状態が、すなわち、「人工的な自然」とでもいえるような状況が、作中に作り出されているのである。

 

近代科学で理解不能な人工的な自然の前で、世界を理解するためには、私たちは近代科学以外のものに頼らざるを得ない。このような構造によって、BLAME!の世界では、消えかけていた天国がネットスフィアとなって、再び存在感を増して目の前に現れてくるのである。

実際に、BLAME!世界の混乱はネットスフィアが原因であるため、混乱の仕組みを理解するためにはネットスフィアにたどり着かなければならない。このような視点でみると、主人公の霧亥がネットスフィアを目指す旅は、ますます切実なものとして、巡礼者のような様相を帯びて見えてくる。こうして、霧亥を追って作品を読む私たちもまた、荒れ狂う自然の中、太古の昔に忘れられた道を懸命にたどって、再び天国への巡礼を始めるのである。

 

SFによって現在と橋渡しされていること 

最後に、BLAME!のこの構造は、作品の中に閉じられたものではないことを述べたい。物語はあくまで物語であり、現実の自分には関係のないものだと思うかもしれない。BLAME!世界において、天国が存在感を増して現れているからといって、それは作品の中だけの話であり、毎日仕事を終えた後ファミマで買った総菜をチンして食べてVtuberを見て寝る日々を過ごしている私たちに関係があるわけではない。

 

それは確かにそのとおりだが、私たちは想像力でその垣根を超えることができる。BLAME!はマンガとしては珍しいハードSF作品であるが、そもそもSFとファンタジーの違いとは何だろうか。SFもファンタジーも定義が曖昧で、この問いに唯一の答えはないと思われるが、SF翻訳家・評論家として著名な大森望は、SFの定義を以下のように示している。

 

科学的論理を基盤にしている。また、たとえ異星や異世界や超未来が舞台であっても、どこかで「現実」とつながっている(ホラー、ファンタジーとの区別)。
現実の日常ではぜったいに起きないようなことが起きる(ミステリとの区別)。
読者の常識を壊すような独自の発想がある(センス・オブ・ワンダーもしくは認識的異化作用)。
既存の(疑似)科学的なガジェットまたはアイデア(宇宙人、宇宙船、ロボット、超能力、タイムトラベルなど)が作中に登場する(ジャンル的なお約束)。

この四つすべてを満たせば本格SFだが、とか、だけとかでもSFに分類してかまわない。SF読者の間では、(リアリズム小説ではないという程度の意味で)だけで「SF」と呼ぶ場合もある(例:「村上春樹の今度のはSF?」「まあ、一応ね」)。
https://ohmori.tumblr.com/post/164655520313/%EF%BD%93%EF%BD%86%E3%81%AE%E5%AE%9A%E7%BE%A9-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%EF%BD%93%EF%BD%861500%E5%86%8A-%E5%9B%9E%E5%A4%A9%E7%B7%A8-1996-2005%E5%B7%BB%E6%9C%AB%E3%81%8A%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8A

 

この定義の①の要素に注目してほしい。

ファンタジーもSFも、現実の世界にはない設定が登場する点では同じだ。ファンタジーなら魔法、SFならタイムマシンやワープ技術等。このように、SFもファンタジーもまったくのつくり話なのだが、SFはファンタジーのように現実とは切り離された別の世界の話ではなく、現実と地続きの世界が舞台になっており、この世界で技術が発展すればもしかしたら本当に生じるかもしれないものとして描かれている場合が多い。

BLAME!の世界も、現実世界とは全く異なる法則が当たり前に存在するファンタジー世界というよりは、技術の暴走によって一変してしまってはいるものの、出発点は現実世界に設定されていると言えるだろう。私たちは、遠い未来にBLAME!と同じようなことが実際に生じない可能性を否定できない。そう考えたとき、私たちは、SFがつないだ想像力の細い抜け道を通って、BLAME!の世界を自分たちにも生じうるもの、現実のものとして感じることができる。そして、そこにある人工の天国を垣間見ることができる。

 

私たちは昔の人がどのように天国を信じていたのかを知ることはできない。神話はただの昔話であり、天国の扉は遠い昔に閉ざされてしまった。

だが、BLAME!はそこに橋を架ける。人工的に作り上げた天国をもって、かつて人が天国にたどり着こうとした狂おしい努力を、その崇高な気持ちを、そしてその背後にある神聖な存在を、自分のもののように感じさせてくれるのである。

  

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弐瓶勉を読む

弐瓶勉は自分が最も好きな漫画家だったのだが、シドニアの騎士ぐらいからそれまでの作品ほどはまれなくなった。自分が昔の弐瓶勉のどこが好きで、なぜ好きじゃなくなってしまったのかを考えた。

 

方法として、弐瓶勉の作品に共通して登場するモチーフについて考えることにした。弐瓶勉の作品には、別々の作品であっても似通ったモチーフが登場する。たとえば、シドニアの騎士までの4作品(BLAME!、アバラ、バイオメガシドニアの騎士)には共通して、味方が敵に作り替えられてしまう描写が登場する。このような共通のモチーフに感情移入し共感できていたのに、モチーフが使われなくなっていったために共感できなくなったことが、作品にはまれなくなった理由なのではないかと考えたからだ。

 

それでは具体的にどのようなモチーフが使われていたかを挙げ、それらに自分がどのように感情移入していたかを考える。

 

まず、冒頭にも取り上げたが、弐瓶勉の作品には味方が敵に作り替えられてしまう描写が共通して登場する。BLAME!では、電気猟師がセーフガードに作り替えられてしまう。アバラでは、普通の人間が奇居子に変わって襲ってくる。バイオメガではゾンビウイルスが蔓延している。シドニアの騎士でも、がうなに食べられた操縦士をがうなが模倣して帰ってくる描写がある。

このモチーフに対し、自分は自分の対人不安を読み込んで共感していたのではないかと思う。よく知り合った人でも相手のことを完全に知り尽くすことはできない。味方が敵に作り替えられるというモチーフは、根本的に他者を知ることはできず、常に裏切られてしまうのではないかという恐怖と付き合っていかなければならないという、他者とかかわることの不安な側面を象徴できるモチーフだと思う。

また、ほかでもないヒロインが敵に作り替えられ、主人公と敵対する展開もたびたび登場する。BLAME!ではシボはセーフガードになり、アバラでは亜由多が白奇居子になる。シドニアの騎士においても星白を模したがうなが登場する(バイオメガには該当なし)。ヒロインという主人公に最も近しい距離にいる女性が敵に変わってしまうところは、上記のモチーフの特徴をより強調していると思う。

 

このほかにも、対人不安を象徴できるモチーフは登場する。他の例を挙げると、弐瓶勉の作品には知的しょうがいを負ったヒロインが共通してでてくる。BLAME!ではレベル9シボ、アバラでは那由他バイオメガではイオン・グリーン、シドニアの騎士はえな白が該当する。

知的しょうがいを負ったヒロインも、対人関係に自信のない自分が感情移入しやすいモチーフになっているように思う。普通の知的能力をもった相手に対しては対人不安が生じてしまうが、知的しょうがいを持っている場合には裏切られることはないからだ。

泣きゲーのヒロインにも知的しょうがいをもった女性が登場するらしいが、下記貼り付け先のブログではその理由として「制御困難な他者としての異性に対する不安の防衛」としてはたらいていたのではないか、という同様の考察がなされている。泣きゲーのヒロインに障害が必要だった理由----か弱いヒロインのfunction 貼り付け元  <https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20100703/p1> )

 

また、主人公を支援する双子のような存在が登場する点も共通している。BLAME!ではサナカン、アバラでは那由他が該当する。バイオメガでは、該当するとすれば同じ識臣で育てられた壬二珠が挙がると思うが、先の2作品ほど双子感はない(シドニアには該当なし)。双子のような存在は、他人ではなく自分の鏡写しであるがゆえに、対人不安を抱かさない存在である。

 

ここまで挙げた例から、自分は、ヒロインが敵にかわってしまうという展開に、得体のしれない不安なものとしての他者感を読み込んで、無意識に共感して惹きつけられていたのではないかと思う。また、対人関係に自信のない自分にとって不安を抱かせない心地のよいモチーフがそろえられていたことも、自分を引き付ける要因のひとつになっていたと思う。

また、これだけではなく、そのほかの展開においても、自分の共感を呼びおこすものが繰り返し登場する。

 

例えば、弐瓶勉の作品では、主人公が大切なものの防衛に失敗する展開がよく登場する。BLAME!ではほとんど全編を通じて防衛に失敗しているが、東亜重工編で電気猟師が虐殺されていく場面や、非公式階層編でシボと別れてしまう場面等が印象的だ。アバラにおいては守れなさ過ぎて地球が滅亡している。バイオメガでも、イオン・グリーンの奪還に失敗し続け、奪還したと思ったら敵に目的を果たされてしまう。また、物語中盤で主人公を助けてくれた村人の村が徹底的に壊滅させられる場面がある。シドニアでは、星白を守れないという重要な展開はあるが、そのほかには防衛に失敗する場面は思い浮かばない。

これらの防衛に失敗する場面にも、対人不安等からくる自己の不能感から感情移入していたのではないかと思う。

 

最も重要なのが結末の展開だ。弐瓶勉の作品には結末においても共通点がある。それは、サブ主人公とでもいうような位置にいたキャラクターがヒロインと性的に結ばれることで物語が終わる点だ。

BLAME!では、サブ主人公としてはサナカンが該当する。サナカンはヒロインのシボとの間で子供を作り、その子供が汚染されていないネット端末遺伝子(BLAME!世界を救う鍵)をもっていることを示唆して物語が終わる。アバラでは、サブ主人公の先島はヒロインのタドホミと別の世界に脱出し、アダムとイブになって終わる。バイオメガにおいても、コズロフがイオンと結ばれることでゾンビ禍が終わり、ハッピーエンドを迎える。一方で、シドニアの騎士においてはこのような結末はとられていない。

この共通する結末は、いわゆるセカイ系の物語における結末と類似している。セカイ系とは、アニメ・漫画・ゲーム・ライトノベルなど、日本のサブカルチャー諸分野における物語の類型の一つであり、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」と東浩紀らによって定義されているが(貼り付け元  <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB>)、弐瓶勉の作品においては、主人公の代わりにサブ主人公がヒロインと結ばれることで世界が救われることとなる。主人公が主人公であるにも関わらず、世界を救うことに直接的に関与できず、しかもヒロインはそばにいないという、自分の不能感を刺激するまるでネトラレのような結末に、自信のない自分は強く惹きつけられていたのではないかと思う。

 

ここまで弐瓶勉の作品に共通するモチーフを取り上げ、それらのモチーフが対人不安や、自信のなさをもっている自分の共感を引き起こしていたのではないかということを見てきた。それでは、最初に立てた仮説のとおり、これらのモチーフは作品に登場しなくなっていったのだろうか。結果としては、実際に登場しなくなっていると思う。下表は上で見てきた要素をまとめたものである。

 

BLAME!

(1997-2003)

アバラ

(2005-2006)

バイオメガ

(2004-2009)

シドニアの騎士

(2009-2015)

知的しょうがいをもったヒロイン

双子のような存在

×

ヒロインから敵への変身

×

防衛失敗

サブ主人公とヒロインがくっつく結末

×

 

以上から、自分が最近の弐瓶勉にはまれなくなった理由のひとつに、対人不安や自信のなさをもった自分が共感できるモチーフ・展開があまり登場しなくなったことがあると考えた。

 

BLAME!(1) (アフタヌーンコミックス)

BLAME!(1) (アフタヌーンコミックス)

 
ABARA 上 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

ABARA 上 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

 

スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険 模造クリスタル

スペクトラルウィザードの続編があるとはまさか思っていなかったのでほんとにうれしかった。前作はここ最近で一番好きなマンガだった。今作は前作よりももっとエンタメ感が強いように思ったが、心にささる心情描写もあって前作に負けず劣らずよかった。

 

今作はクリスタルウィザードの行動を中心に騎士団の謎にせまっていくミステリー仕立てになってて、ストーリーで先を読ませる作品になってた。作者の作品はこれまではキャラクターの心情描写が中心でストーリーはそこまでメインな感じではない印象だったので意外だった。前作(無印)の最終話もストーリーメインだったので、それのテイストに近いと思う。

 

前作では輝かしい過去と現在を対比し、そこから生じる憧憬や後悔などの後ろ向きな感情が中心に置かれていたが、今作はサブキャラのミサキちゃんのスペクトラに対するかかわり方を通じて、人とのかかわり方がメインのテーマの1つになっていたと思う。

 

主人公のスペクトラは魔女、ミサキちゃんは魔女を取り締まる騎士団の一員で、立場上は対立関係にあるが、スペクトラがあまり敵対的でなくピンチのときにはスペクトラの支援を仰ぐなどふわっとした友好的な関係を築いていた。しかし、ミサキちゃんのスペクトラに対するかかわり方は「魔女を取り締まる」という目標に向かうためのもので、いうならば目標達成の道具としてスペクトラをいいように利用していた面があった。騎士団という警察組織の価値観、すなわち正義感に忠実なことが風紀委員長みたいなミサキちゃんを形成していた。

一方で、そのような道具のように扱う中でもミサキちゃんのスペクトラに対する感情ははぐくまれていた。スペクトラと対立したときに、これまで意識していなかった自分のスペクトラに対する感情と、自分の中心であった正義感が緊張関係になり、そこからの展開でやばいカタルシスを生み出していた。

 

この作者はスペクトラルウィザードシリーズでキャラクターデザインとカタルシスの作り方がすごくうまくなっているように思う。今作もぽけーっと読み進めていたら最後にそんなところに盛り上がりをもってくるのか、とびびってしまった。キャラデザも絶妙なデフォルメで、出てくるキャラクター全員がむちゃくちゃかわいくてページをめくってるだけで幸せになる。

 

 

深夜特急 沢木耕太郎

読んでると昔した一人旅行を思い出して懐かしくなった。これまで一人旅行したのは鎌倉、諏訪、東北の三回で、どれも1~2泊ぐらいの小規模なものだった。その中では諏訪の旅行が一番印象に残っている。電車の扉が押ボタン式なのを知らないで扉の前で待っていたことや、小雨の中上下4つの諏訪神社をまわったことや、止まった古い旅館の畳で寝転がりながらシャドウバースをしていたことなど、なんでこんなこと覚えているんだろうと思うような細部もなぜか記憶に残っている。

 

自分が一人で旅行に行くときに特に明確な理由はなかった。一人でいた方が気楽だけど、まとまった休みに何もやることがないので、どうせなら旅行でも行くか、というのがいつもの感じだったように思う。自分のことをそれほど一人旅好きだとは思わないが、3回も行ってるということは嫌いでもないのかもしれない。でも一人旅から得られた経験は、支払ったコストと比較してそれほど多かったのだろうかと考えると悩んでしまう。自分は一人で旅行に行って何かコストに見合う経験を得たのだろうか。なにも思い当たるものがない。旅先で買ったちゃっちいお土産のような思い出のかけらが、そこそこの時間と安くはない費用を支払って手に入れたかったものなのだろうか。

 

この本を読んでも、作者がなぜ旅をしようと思ったのか、旅をして何を得たのかははっきりとは描かれていなかった。異なる文化に触れて感じたことや、住民とのコミュニケーションや、たまの内省が書かれてはいるが、肝心の旅の明確な動機はないままに話が進んでいった。電車を勧める駅員との言い争いの場面で、その動機のなさが表面化していたように思う。駅員から電車を使えと言われているのにバスで行きたいと言い張って、その理由をうまく言えずとにかく行きたいのだと作者が主張するところでは、駅員の方に感情移入して、バスで行きたい理由がなければ電車でいいではないかと思ってしまった。結局、この作者が何でバスで行きたかったのか、そもそもなんで一人旅をしようと思ったのか、この旅によってその目的が達成されたのかは、最後まで読んでもわからなかった。

 

答えが明確に書かれていなかったので、読み終わった後、何が旅の魅力(旅の目的となりうるもの)なのかいろいろ考えてしまったのだが、旅行とは、楽しみのために、(1)出発地から離れて、(2)別の場所に行くこと、だと言えそうだ。

(1)からは、①日々の仕事等の義務・人間関係のしがらみ等、日常におけるネガティブな要素から離れられること、②日常ではなかなか持てなかった一人の時間(または同行人との親密な時間)が持てること、等の魅力が引き出せるように思う。

(2)からは、③異なる文化に触れて自己の価値観を相対化できること、④美しい自然や芸術やおいしい食べ物を楽しめること、⑤旅先で出会うトラブルの解決を通じて達成感を得られること、等の魅力が引き出せるように思う。

 

個人的には、④をもっとも重視しつつ、若干⑤もあればいいなぐらいの気持ちで旅行に行っている気がする。①や②はあんまりないし、③のようなことを特別意識しながら旅行に出たこともないと思う。⑤は、積極的には望んではいないけど、何の不安もないツアーより自分でコースを考えて行く方が好きだし、トラブルに出会った旅の方がなんだかんだいい思い出になっているので、消極的に欲している感がある。

実際には、①②④あたりを目的に旅に出たらそのほかのもごちゃまぜになってふりかかってくる複合性というかランダムさも旅の魅力を構成する要素のように思う。

 

ここまで考えて、旅行には明確な目的はやはりなくてもいいような気がしてきた。最初に何か目的があったとしても、向こうからごった返して魅力が押し寄せてきて、最初の目的ももみくちゃになってよくわからなくなるけど、あとからふりかえってなんかまた行きたいとなるのが旅行なのかもしれない。

 

この本を読んで中東に行ってみたくなった。青空が広がっている砂漠の町というのはとてもよさそうだ。

 

深夜特急1?香港・マカオ? (新潮文庫)

深夜特急1?香港・マカオ? (新潮文庫)

 

 

幻獣辞典 ホルヘ・ルイス・ボルヘス

辞典という題名がついているものの、掲載されている幻獣は西洋系が中心だった。言語的な問題から仕方ないのか、日本の妖怪系はまったく収録されていなかった(ぬりかべとか)。収録の基準もあいまいで、カフカCS・ルイスの想像した動物は細かく収録されていたが、これらを収録するならポケモンも全部載せてほしい。一方で、ラミアやセイレーンなどの、ウィッチャー3に登場したモンスターの背景を知ることができたのはよかった。

 

子供のころは図鑑が好きで、よくおじいちゃんに買ってもらった動物図鑑や魚図鑑を眺めていた気がする。それにオカルト系の本も好きだった(吸血鬼の家族の絵本とか学校の七不思議系とか)ので、子供のころから趣味が変わっていないなと思う。

 

出展はプリニウスの博物誌からが多くて興味を持ったが、幻獣だけでなく世界のすべてについて記述した百科事典的な本で、元は37巻もあるみたいだ。Wikipediaによると、ルネサンス期の15世紀に活版印刷で刊行されて以降、ヨーロッパの知識人に愛読されてきたらしい。幻想文学にも影響を与えたと書いてある。日本語版だと全5巻ぐらいで出版されているようなので、買ってみてもいいかもしれない。ほかに引用元として多かったのはフローベールで、ボヴァリー夫人でしか知らなかったが、意外にも聖アントワーヌと誘惑という幻獣がたくさん出てくる本を書いていたようだ。岩波文庫から出版されている。歴史を書いているはずのヘロドトスが引用されている箇所も多かった。あとはやはりギリシャ神話を出自に持つ怪物が多かったように思う。

 

おもしろかったが、網羅的でない点で不満もあり、もっと本格的な図鑑があればいいのにと思ってしまう。ほかにないか探してみよう。

幻獣辞典 (河出文庫)

幻獣辞典 (河出文庫)

 

 

インド・カレー紀行 辛島昇

インド料理というとカレーぐらいしかしらないが、この本によるとカレーとはイギリスがインドを植民地支配していた時代にイギリスで生まれた料理であって、インドにはカレーという料理はなく、むしろすべてがいわゆるカレー味のスパイスの組み合わせで味付けされているらしい。つまりインドに行くとカレーしか食べれないということだろうか。

 

もともとは、北インド料理は遊牧民に特徴的な乳製品を中心とした料理であり、南インドがスパイスを用いた料理を作っていたが、それが時代を経るにつれて混ざり合い、現在のインド料理になっていったということだった。本ではいろいろな料理が紹介されていたが、どれも同じように見えてあんまり記憶に残らなかった。おなかを壊すのが怖いが、インドに行ったらいろいろ食べてみたい。

 

また、インドで手をつかって食事をするのは、浄・不浄の観念が関係していると知った。インドのヒンドゥー教では浄・不浄の区別が非常に重要で、動物を殺すなどの不浄に分類される仕事は社会的に低いカーストのものがしている。不浄は触れると伝染してしまうため、バラモンなどの浄の位にいる人は、不浄の人が触ったものに触れないようにしなければならないようだ。なので、不浄の人が使った食器等を使わないで済むように、皿はバナナの葉などを使い捨て、スプーンを用いず手で食べる習慣が生まれたということだった。この本とは関係ないが、インドでは家にトイレがない場合が多く、野外排泄している人口が非常に多いとされているが、これもヒンドゥーの浄・不浄を切り分ける発想が根元にあり、トイレは不浄にあたるため家から離れたところに作らなければならないとされているらしい。インドでは宗教が今なお生活に深くかかわっているのだと知った。

カラー版 インド・カレー紀行 (岩波ジュニア新書)

カラー版 インド・カレー紀行 (岩波ジュニア新書)