さかしま J・K・ユイスマンス

ウェルベック服従の主人公がユイスマンスの研究者の設定で、それで気になって読んだ。1か月ぐらいかかった。

 

話の展開に重きが置かれておらず、主人公が部屋の中で音楽や本や香りや色などに関する趣味をひたすら披瀝していく本だった。いかにも退屈そうだが、意外とすらすらと読むことができた。1ページに3つぐらい読めない単語が出てきたが、ユイスマンスの文章自体も隠語や古語がふんだんに使われていたようなので、原文の印象を表すためにわざとそうしているのかもしれない。

 

デカダンス聖典とされていたようだが、あまりその面では新鮮味を感じなかった。今ではデカダンスサブカルチャーにあふれているからだと思う。アニメの敵キャラによくいる。そういう趣味が一般的でなかった時代には珍奇なものとして映ったのだろう。あとがきに作品が発表された当時の反応が描かれているが、「こんな小説が一言でも解るぐらいなら、いっそ首を吊って死にたいものだ」といった人もいるようだ。さかしまはよくその価値を世界に広めたものだなと現代の視点からみると思える。

 

オカルティズムに興味があるのだが、どういう本を読めばいいのかわからない。澁澤龍彦が関連している本を読んでいくのがよさそうだ。ユイスマンスの他の作品も同じような主題を扱っているようなので読んでみたい。彼方は文庫でも出版されているようなので読みやすそうだ。 

さかしま (河出文庫)
さかしま (河出文庫)
 
服従 (河出文庫 ウ 6-3)
服従 (河出文庫 ウ 6-3)
 

ロング・グッドバイ レイモンド・チャンドラー

半月ぐらいかけて読んだ。村上春樹訳で、むちゃくちゃ長いあとがきが書いてあった。村上春樹ってやっぱり文学に精通しているんだなと思った。当たり前なのだが。

 

主人公のマーロウが、スマートそうな名前の割には頑固だったり暴力的だったりしておもしろかった。村上春樹が翻訳しているだけあって、コーヒーを飲んだりギムレットを飲んだりとおしゃれな感じですごしていて、 村上春樹はこのあたりから自分の作風を作り上げたのかなと思った。ウィキペディアによると、自分の人生にもっとも影響を与えた作品の一つとして挙げているらしい。

 

村上春樹は『カラマーゾフの兄弟』と『グレート・ギャツビー』と本作を、もっとも影響を受けた作品3作として挙げており、『羊をめぐる冒険』の物語も本作の影響をよく指摘される。

貼り付け元  <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E3%81%84%E3%81%8A%E5%88%A5%E3%82%8C>

 

 

中盤のウェイド夫妻が物語に絡んできたあたりから話がおもしろくなって、一気に読めた。アイリーン・ウェイドはすごく美人に描写されていて、実際に見てみたいと思った。

 

村上春樹曰く、チャンドラーにはフィッツジェラルドと共通するところがあるそうだ。僕はグレート・ギャッツビーを読んだけど良さがわかっていない。ロング・グッドバイもおもしろく読むことはできたものの、単純にミステリーとして読んだだけで、村上春樹のように深いところで良さはわかれていない気がする。そのあたりの感性に欠けるんだろうな。村上春樹はあとがきで良さをむっちゃ書いていたが、実感としてわからなかった。

 

ウィキペディアによるとハードボイルド小説の定番になったぐらい影響を与えたそうだ。これがいわゆるハードボイルド小説だったのか。あまりにおしゃれで自分の持っていたハードボイルドのイメージとは違っていた。シン・シティのザッツ・イエロー・バスタードがいちばんイメージに近い。

 

シン・シティ2

シン・シティ2

 

 

ダンジョン飯 6巻 シェイプシフター考察

自分と同じ考察が見当たらなかったので書いた。表で色を付けているところが考察で、ほかは消去法で埋めた。

 

1.ライオスのシェイプシフター

f:id:meganeza:20180623213600j:plainみんなのライオス像がむちゃくちゃすぎて笑える。

 

 

2.チルチャックのシェイプシフター

f:id:meganeza:20180623213607j:plainセンシはチルチャックのことを子どもだと思っているし、マルシルもチルチャックを子ども扱いしているので、どっちのシェイプシフターもかわいい感じになっている。

 

3.センシのシェイプシフター

f:id:meganeza:20180623213613j:plainマルシルも料理は手伝っていた気がするので、なぜフライパンが適当だったのかわからない。

 

4.マルシルのシェイプシフター

f:id:meganeza:20180623213618j:plain

魔術書が適当なシェイプシフターは、「髪は魔術師の命なのに」と発言しているが(p.113 6巻)、センシも2巻で湖を渡るときにマルシルが髪は大事と言っているのを聞いてる。

 

黒魔術のシェイプシフターは、センシもチルチャックも魔術に対しては好感を持っていない気がするので、どちらのものか決めかねたが、チルチャックの方にはエルフと黒魔術に対してステレオタイプなイメージで発言している描写がある。

上の髪に関する発言の考察と合わせて、黒魔術のシェイプシフターをチルチャック、魔法書が適当なシェイプシフターをセンシのものと考えた。

 

髪を下ろしているシェイプシフターは、ファリンを黒魔術で生き返らせたときのマルシルだと思う。目の周りが涙で腫れているっぽい描写があるし、髪もほどいている。発言もシリアスだ。

禁忌を冒してもファリンを助けてくれたところがライオスの印象に残ったのかなと思って、なんかよかった 。

  

 

ダンジョン飯 6巻 (ハルタコミックス)

ダンジョン飯 6巻 (ハルタコミックス)

 

 

BLAME!劇場版 感想

BLAME!劇場版は弐瓶初期作品厨という糞せまニッチで暮らすサブカル諸氏にとってめぐみの雨であったことだろう。

 

私は回転する偽装端末の周りをペースを合わせて歩くシボを見たときの衝撃でいまだに動機がするし手が震えているし汁も漏れ続けている。最高だった。

 

色眼鏡のかかった評価になるが、信者以外の人にとっても、なかなか癖がありつつも普通に楽しめる、見て損はない作品に仕上がっていたと思う。

 

blame.jp

 

しかし、手放しでほめてよいものだろうか?

以下思ったことを書く。

 

気になった点

1.説明っぽさを感じたこと

BLAME!原作は説明があまりにもなさ過ぎて何度も繰り返し読まないと意味不明なレベルだが、逆に説明が極力排されていることで読者の想像にゆだねられる範囲が多くなり、むしろ作品世界のリアリティを保っていた面もあると思う。

 

一方映画では、マンガのように止まったり戻って見返すことできないメディアでもあり、またマス向けを意識せざるを得ないメディアであることもあって、その原作をできるだけ一度で万人に理解できるように作品設定の説明が丁寧にされていたように思う。

 

それが登場人物の口を通してされるために、説明臭さを感じる場面が多く、また想像の余地が減って原作のリアリティが薄れて中途半端なものになってしまっている感があった。(ネット端末遺伝子の話を5回ぐらい聞いた気がする。それでも捨造が理解してなくて笑った)

 

解決策としては、原作に忠実にする or 設定から改変しまくって完全大衆向けのアニメにするのどちらかに寄せるぐらいしか思いつかないが、それは原作あり映画の姿勢としてよいのか、と思うのでどうしようもなかった気がする。

 むしろ上記のような安易な解決策に頼らず、原作の良さを残しながらできるだけ大衆向けにしようと努力がなされていたのは個人的にはよかった点だった。

 

2.感情の移入先の設定がうまくいっていないように思えたこと

主人公の霧亥が無口過ぎて、感情移入先として役立たず(原作どおり)であるため、代わりの感情移入先を設けるのにすごく苦労しているように思えた。そこで代わりとして用意されたのが電気猟師の人々だったのだと思う(インタビュー記事に書かれていた)が、それが後半の展開と会っていなかった気がした。

 

弐瓶の初期作品は「孤独さ」が魅力だと思っていて、登場人物が新しく出ては少しの間主人公とランデブーをして、すぐにいろんな形でフェードアウトしていく。味方はすぐ死んだり別の生き物に変身してしまうし、敵はコミュニケーションが成立する余地もなく襲い掛かってくるので戦わなければならない(すぐ死ぬ)。

他人とつながりができたかと思うと奪われてしまう描写が何度も繰り返し出てくるが、そんな中を霧亥は変わらず1つの「ネット端末遺伝子を探す」という目標を抱いてもくもくと歩いていく。

「結局他人は他人で、一人で生きていかないといけないんだなあ」としみじみ思わされるところが、原作の魅力の1つだと思っている。

 

映画では、上で述べた通り、感情の移入先が電気猟師に設定されており、電気猟師に感情移入してみる我々が感動できるよう、電気漁師が「困難を克服すること」によって感動を与えるような話づくりがされていたように思う。

でも電気猟師は原作では他の登場人物の例にもれずすぐフェードアウトする役回りの人たちで、原作リスペクトによるその辺の展開も微妙に採用されており、それが困難の克服的な方向性と微妙にあっていなかった気がした。一方では原作どおりむちゃくちゃに蹂躙され、一方では勝利、みたいな、結局どっちに捉えればいいの?というちぐはぐな感じを受けてしまった。

でもこれは自分が原作に引っ張られすぎた鑑賞をしてしまったかもしれない。

 

この点も解決策としては霧亥をものすごくヒロイックな主人公にして、感情移入できるようにキャラ設定を変えてしまう等の方法も考えられたが、上述のとおりそのような解決策はこの映画ではとられておらず、よくも悪くも原作に忠実で、片言で「おれは。。。ネット端末遺伝子を探している。。。」としかしゃべらないおよそ主人公らしくない設定のままであった。

この点も原作を残しながら大衆向けにするために苦慮した結果だったのだと思う。

 

 

最高だった点

1.動いていたところ

 

最高

 

 

2.デザイン

 

 

 

3.話の構成

再確認したが、BLAME!はわかりにくい世界設定と説明のなさから意味不明な作品に思えるが、話の展開の方はその実しっかりしていて、盛り上がりの場面がきっちり設けられている。映画になって、その辺の構成の良さがあらためてわかった。

映画オリジナルの展開の部分も、違和感なく原作につながっててよかったと思う。

 

4.フェティシズムを感じる描写

弐瓶らしいフェティシズムを感じる描写が随所にあって、最高だった。

シボのあのハイヒールのコツコツ歩く感じ!!!とか、電気猟師のヘルメットの顔と顎の覆いが連動してる感じとか!!!

涙がでるわ。。ほんとに。

弐瓶好きならまちがいなく満足できる。はなまる

 

4.音響

BGMがEDMっぽくてかっこよかったし、音響にもこだわりを感じた。シボのハイヒールのコツコツ音やセーフガードの歩くカチャカチャ音とか、電気猟師の打つボウガンみたいなやつの金属音なんかは、強調されていて存在感があった。

 

5.原作リスペクト

散々上でも述べてきたが、原作リスペクトが端々に感じられて良かった。

原作の設定とか話の展開を残しながら映画としておもしろくしようという姿勢がうかがえたし、原作の名ゼリフなんかも場面を変えて使われていたりだとか、原作の別の場面で出てきた場所(自動工場とか!あと電気漁師が一晩泊まった窓のいっぱいあるとこは9巻のシボが建設者と暮らしてたとこ?また、映画の霧亥の初登場シーンは原作のドモチェフスキーと霧亥が初めて会うとこか?)が出てきたりして、すごい満足した。うう。

 

 

総評

弐瓶好き、BLAME!好きには文句なしで勧めれる。シボやサナカンが動いているだけでほんと。。弐瓶作品に触れたことがない人にとっても、作品としておもしろく鑑賞できつつ、弐瓶作品の癖とか原作の雰囲気を感じられるものになってると思った。ぜひBLAME!劇場版を入り口にして、他の弐瓶作品も読んでほしい。

 

正直私は最近の弐瓶の作品があまり好きではない。大衆向け作品を志向するのはいいと思うが、その方法がいかにもマンガ的な描写をとってつけたような気がしてしまい、どうも受け付けなかった。

 

そんな私にとってもBLAME!劇場版はよかった。

最近の作品はどんどん自分が好きだった弐瓶の作品から離れていってしまって悲しさを感じていたが、BLAME!劇場版は原作の良さを残しながら大衆に受ける作品を目指しており、BLAME!原作へのリスペクトを感じさせる作りに感動した。。。

 

弐瓶自身は過去の自分の作品制作スタンス(「面白いものにしよう」と思っていなかったこと)を否定してる(https://akiba-souken.com/article/30072/)から、原作リスペクトは弐瓶自身ではなく他のスタッフによるものなのかもしれないけど。。

弐瓶も過去の作品の価値を棄て去らずにいてほしい。完全に個人的なあれだが。

人形の国も読みます。

 

 

 

 

でも安易に裸とかギャグっぽい描写を放り込むのはやめてくれーーー!!!!!

 

 

 

 
 

 

 

『Fate / stay night』

自己を省みない人間には二種類あって、1つが幼児で、もう1つが王だ。

 

1. あらすじ

「Fate/stay night」公式ページ

 

2.プレイした経緯

2014年に放映してたFate/stay night [Unlimited Blade Works](3つある内の2つ目のルートをアニメ化したもの)を見て初めてFateに触れてドはまりした。2017年にHeaven's Feel(3つ目のルート)が劇場版で公開される予定なので、その前に原作をプレイしておこうと思った。

Fateは元は声なしの成人向けPCゲーだが、PS2PSPで声付き全年齢版が出ていて、1つ目のルートはスマホでただでできる。ただ私はどうしても18禁シーンを見たかったのでアキバで中古のPC版を買った。

 

3.感想(主にUBW)

むちゃくちゃ抽象すると、「自己肯定」が作品を通して一本筋の通った主題だったように思う。

 主人公の衛宮士郎は、3つあるルートでそれぞれ異なる苦境に陥るのだが、どのルートにおいても自らに与えられた運命、自らが選択した人生を後悔せず、それを肯定していく。その主人公の姿に、他のキャラクターも感化されていく。

 

その自己肯定はもはや狂気に思えた。だが、同時にどこか懐かしいような気もした。

 懐かしい気がしたのは、主人公の生き方が自分が子供のころを思い出させたからだろう。主人公はいわば大きな子供だ。 主人公は「正義の味方になる」という自分の夢を捨てず、それが不可能かもしれないと心のどこかで気づきながらもそれを信じて追い求めていく。

 みんな子供のころは主人公とは異なる形であっても何かしらの夢を持ち、それがかなえられるものだと信じて疑わず、全能感のもとに生きてきたはずだ。しかし、年齢が上がって周囲が見えるようになり、他人と触れ合うようになるにつれて、挫折を味わい、自分がとるに足らないものだと知り、その全能感は失われていく。

それは社会で生きるために必要なプロセスでもある。自らを他者と比較し、集団の価値基準を自己に取り入れて、自らを集団の中に位置づけ客観的に判断できるようになることは、俗に「大人になる」と言われていることだと思う。

 主人公はそのプロセスを経ていないように思える。主人公は決して挫折せず、他人の忠告を聞かず、自分の夢をかなえるために自分の選んだ道を愚直に進んでいく。

 

これは幼稚な生き方であるが、同時に王様の生き方でもあると思う。

王様は自分が法であり、自分の価値基準が自分の統治する社会の価値基準と同じであるがゆえに、決して挫折を知らず、後悔しない。たとえ自分が裸であっても(ギルガメシュやzeroのイスカンダルを見よ)。

 

主人公に感化されるキャラクターに感情移入して、主人公のようにいつでも自分の選択が「正しい」と感じられるように生きれたら、と思った。社会で生きていく限りそれは無理なのだが。

子供のころのような気持ちに戻ることができてすごいよかった。

『山賊ダイアリー』岡本健太郎

ダンジョン飯から飯マンガをあさってて見つけた。

山賊ダイアリー(1) (イブニングコミックス)

山賊ダイアリー(1) (イブニングコミックス)

 

 

1.あらすじ

作者が猟師で、猟の様子や獲った動物を食べた体験をマンガにしてある。猟の細かい情報(どれが狩猟鳥獣かとか、道路から銃を撃ってはいけないとか)や、カラス等ジビエ飯の味とかが書いてあって、知的好奇心が満たされる。

 

2.感想

ダンジョン飯を読んでから飯マンガおもしろいなと思い、いろいろ読んでみた(極道めしきのう何食べた?等)のだが、なにか物足りない感じがあった。

 

それはサバイバル感だった。

小学生のころ、十五少年漂流記とか神秘の島とかのサバイバルものにはまった時期があって、「ウミガメのスープとか食うのかよ~、きもいけどちょっと食べてみたいな」とか思いながら読んでいた。

 

山賊ダイアリーはそんな自分がまさに読みたかった飯マンガで、ダンジョン飯以降の飢えていた自分のサバイバル飯マンガ欲を満たしてくれた。

 

猟師のコミュニティーの話も秀逸で、作者と一緒に狩りに行く友人が、作者の奇行(ヌートリアを食べたり等)に引く様子がおもしろかった。

 

ただ、ダンジョン飯よりも飯がまずそうで、それは残念だった。

 

 

『スキャナー・ダークリー』フィリップ・K・ディック

麻薬乱用は病気ではなく、ひとつの決断だ。しかも、走ってくる車の前に飛び出すような決断だ。(p.453)

 

スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF)

スキャナー・ダークリー (ハヤカワ文庫SF)

 

 

あらすじ

ハヤカワ文庫のあらすじをそのまま引用する。

カリフォルニア州オレンジ郡、覆面麻薬捜査官フレッドことボブ・アークターは、流通し始めた新種の麻薬・物質Dの供給源をつきとめるため、おとり捜査を行っていた。自ら物質Dを服用して中毒者のグループに侵入した彼は、有力容疑者としてボブを監視するように命じられる。自分自身の行動を見張るうちにボブ=フレッドの意識は徐々に分裂していく・・・。ディックの最高傑作との声も多い、超一級のアンチ・ドラッグ・ノベル

 

感想

薬中のリアリティ

あらすじからして、何が「現実」なんだ的なぐちゃぐちゃな話を期待して読んだら、意外とそうでもなくて、語り手が分裂していくというギミックはありながらも、主人公がドラッグに溺れて燃え尽きる(人としての通常の生活ができなくなる)までを描いた、割と筋の通ったストーリーだった(ぐちゃぐちゃではあったが)。

ディックの本でよくテーマになる「現実性=アイデンティティの揺らぎ」は、この本だと若干背景に引いていたように思う(とはいえ、スクランブルスーツや物質D等のガジェット、タイトルが「スキャナー=目=自我」「ダークリー=おぼろげな」であることからも、その点がテーマの1つであることは間違いないと思うが、少なくとも『ユービック』や『流れよわが涙、と警官は言った』ほど強烈には感じなかった)。

 

その理由だが、おそらくこの本がディックの体験に大きく依拠した作品だからだと思う。孫引きになるが、あとがきで引用されていたディックの本書に対するコメントを引用する。

「・・・わたしは、ドラッグ・サブカルチャーの中で知り合った人々の記憶を紙の上に書き留めておきたかった。彼らのことを記録に残すために、あの小説を書いた。」

「いちばんの問題は、彼らの言葉の調子が耳から消えてしまわないうちに、彼らの声を紙に書きつけられるかどうかということだった。それには成功したと思っているよ。いまではもう、あの連中のことを書くのは不可能だろう。『スキャナー』を読みかえすと、彼らが生き返ってきたような気がする。」(p.465)

ディック自身の実際の経験を元に書かれた作品であったから、現実性の揺らぎの要素は薄まったのだと思う。その代わりに登場人物の薬中たちから異様な現実感を感じた。

薬中のカップルの口論や、ラリったあとのくだらない会話(ハシシを隠して税関を超えるために、ハシシの塊を人の形にくりぬいて彫像にして中にモーターをいれて税関を通らせようぜ、とか)が、いかにもほんとに話してそうな感じだった。

 

そんなくだらない会話や、幻覚や、脅迫的な思い込みにさいなまれている描写の合間に、サブリミナルのように悲しみを誘う描写が挟まっていて印象に残った。

例えば上で触れたハシシの彫像のバカ話は、ふとした拍子に燃え尽きた知人(床の上に糞尿をし、オウムのように同じことを繰り返して話すだけになった)の話になり、重い沈黙にとってかわられる。

別の逮捕された薬中の女は50歳ぐらいに見えたが、年齢を聞くと19歳で、警官に鏡で自分の姿を見せられて泣き出してしまう。

 

薬中の登場人物たちの全てに、暗い影が付きまとっていた。

 

本作のテーマ

本作はあらすじでは「アンチ・ドラッグ・ノベル」として紹介されているが、本作や著者あとがきでのディックの薬物乱用に対する姿勢は、「アンチ・ドラッグ」という字面から私が受けた印象とは異なっていた。

 

ディックは作中を通して「薬をやる人間=悪」という描き方をしていない。

「これだけはいわせてください。ヤクにはまったからといって、その人間のけつをけとばさないように。ユーザー、つまり、常用者をです。彼らの半分、いや、大部分、とりわけ若い女たちは、いったいなんにはまりこんだのか、いや、なにをやっているのかという自覚さえない。・・・」(p.48)

 

では何が悪なのか。

答えは、中毒者に「薬をもたらす社会の仕組みそのもの」である。これが本作の最重要なテーマであると思った。

主人公のアークターは薬の出どころを探すが、薬の密売ルートは複雑に入り組んでいて、見つけることができない。中心をなくした悪が取り除きようのないほど奥深くに潜り込んでいて、いつのまにか誰もが悪に加担してしまっており、その結果として無関係な個人が犠牲になって死んでいく。

そのような、社会の背景にあるとらえようのない見えない大きなメカニズムとして、悪が考えられているように思った。

 

終盤の女の独白が上の答えを暗示しているように思える。好きなので引用したい。

どうしてこんなことが起きるわけ?それはこの世界に呪いがかかってるからよ。・・・それがはじまったのは、きっと何千年も前にちがいない。いまでは、あらゆるものの性質のなかへそれが染みこんじゃってる。そして、あたしたちみんなの心のなかにもだ。どんな人間も、それをしなくては、向きを変えることも、口をあけてしゃべることも、なにかを決めることもできない。・・・いつの日か、あざやかな色の火花の雨がもどってきて、こんどはあたしたちみんなでそれを見られたらいいのに。せまい戸口。その向こう側にあるのは平安。彫像、海、それに月明かりに似たもの。なにひとつ動かず、なにひとつその静けさをかき乱さない。(p.386)

 

meganeza.hatenablog.com